「生きた博物館」
ナミビアにはコイサン族の「生きた博物館」(Living Museum)がいくつかある。狩猟採集生業を続ける彼らの地域で、その活動を実際に紹介する野外博物館だ。展示もあるが、実際に森を探索したり、狩りをしたり、村の祭りを再現したりして、現在も残るのその文化を紹介する。キャンプ場を併設し、泊まれるようにしたところも多い。(同様のコンセプトの野外博物館はボツワナ、南アなどにもある。)
サン族の皆が、昔ながらの狩猟採集生活をしているわけではない。現代生活に入ったサン族の人たちも多いことは認識しておく必要がある。しかし、伝統を継承するためにこうした事業を行っている。観光業に生かすことで、金銭所得の限られた彼らのコミュニティの経済活動にもなるし、次世代のコイサン族の若者たちにとって自分たちの文化的背景を学ぶ場ともなる。
私はさほど、昔ながらのコイサン族を見たいとは思っていなかった。それより、現代社会で困難に直面しながら生きる通常のコイサン族の人たちに会いたいし、その社会に触れたいと思った。だからツムクェの村に滞在し、そこの暮らしを体験できることに大きな意味を見出している。
それでも1回くらいは、こうした昔ながらの生活を見に行くのもいいし、必要なことだろう、と思って6月5日、ツムクェの(比較的)近くにある屋外博物館「ジュホアンシ・リビング・ハンターズ博物館」(Living Hunters Museum of the Ju/Hoansi)に出かけた。
サン語の表記について:コイサン系の言語にはクリック音(英文表記では例えば/や!)が入るので日本語で発音を表記するのは難しい、というか不可能だ。専門家の論文などみると、だいたいこれを無視した日本語表記にしているようだ。例えばサン族のサブグループJu/Hoansiは、発音を聞くと、ジュツアンシのように聞こえなくもないが、これを「ジュホアンシ」としている。あるいはその形容詞形Ju/Hoanから「ジュホアン」で統一している場合も。ここでは、クリック音無視の表記を基本としながら、適宜適切と思われる表記をとる。
「リビング博物館」はいずれも、遠隔地の辺鄙なところにある。確かに、そうでなければ、現代文明に浸食されていない伝統生活は残されないし、狩猟・採集の対象となる動植物もあまり豊かでなくなる。しかし、車がないバックパッカー旅行者とっては、そういう所に行くのは非常に困難になる。幸い前述の経緯で、自転車を借りられた。サン族探索の最後に残された課題をやり遂げにゃ、と出かけた。
サイクリング耐久レースとなった
結局、23キロと行っても、砂地の多い悪路で、自転車を押して進むことが多くなった。体力の消耗は激しく、行き4時間半、帰り5時間かかった。サン族の文化見学というより、約10時間の耐久レースで、その中にサン族見学も少し入るという旅になった。実際、リビング博物館での歩き体験学習は、無理な姿勢で自転車をこぎ続ける中で、丁度いい体ほぐし時間になったくらいだ。
朝8時前に宿を出る。あまり早すぎると早朝の野生動物活動時間とかち合う。ある程度太陽が昇ってからがいい。
昨日同様、有料ヒッチハイクをする村人たちが10人以上、例の村はずれの木陰の待機場所に集まっている。「よう、ハイクか。がんばれよ」と声をかけて私はまっすぐ進む。
その中の一人の老人が必死に私を追ってきて声を上げた。止まれと言っているようだがよくわからない。行くのは無理だと言っているのか。入場料は払ったのか、と言っているのか。それなら昨日払った。無視してどんどん先に進む。
村を出てすぐ、これは大変な行路だということが分かった。砂地が多い。それがずっと続いて、まるで砂丘の上を行くようなところもある。もちろん自転車はこげず、降りて自転車を押していく。押して進むのさえ大変なくらいだ。
特に、村に近いあたりにこうした砂道路区間が長かったようだ。23キロの中ほどまで来るとむしろ普通の砂利道が多かった。村近くの数キロは、帰りにはぐっと体にこたえる難所となったが、行きはよいよい、元気のある開始直後の勢いで突破した。
野生動物に注意
それよりも最初は、危険な野生動物を恐れた。路肩や周囲のブッシュには近づかない。休む時も道路の真ん中で休む。ブッシュの影から猛獣が飛び出してくるのを恐れたわけだ。道路を走る猛獣、つまり車は、幸いほとんど来ないので無視できる。
できるだけ近くにブッシュのない視界の開けた場所で休むようにした。日陰を求めて木の下に停まるのも避けた。木の上に棲息する猛獣が居るし、意外と毒蛇なども木の上に居るという。
まあ、結局、取り越し苦労だったかのだが、必要な警戒を怠ってはならないだろう。実際、砂道路の上にはいろんあ動物の足跡が付いていて、巨大な像が横切ったのがわかる足跡も各所で見た(巨大な糞も)。
時速5~6キロ
砂地でなく砂利道になったら喜ぶ(少なくとも自転車に乗れる)ような道路では、時間がかかる。結局、時速5~6キロで進んだことになった。歩く速度とあまり変わらない。ごくまれに、前の方に歩く人が見えても、なかなか追いつかないのももっともだ。いや、歩いている人が一人でもいれば(だいたい複数で歩いている)、そうかここは人間が歩いても危険はないところなのだな、とわかって安心する。
グーグルマップで場所を確認していく限り、8時前に出て12時過ぎくらいには着くだろう、と計算でき、それで何とかモチベーションを維持した。リビング博物館はちょっとだけ見て、すぐ引き返せば、明るいうちに帰れる、と自分を安堵させる。
出発して3時間くらいしたとき、後ろから村人をたくさん乗せたトラックが通った。23キロを行く中、リビング博物館方向に行く車はこの1台だけだった(北から村方向に来る車は5,6台来た)。少なくとも3時間待っていれば私もあの「ハイク」に乗れたのだな、とわかった。こっちも手を振るし乗客たちも歓声を上げて手を振ってくれた。
あとはただひたすらこいで押して、「予定通り」12時半くらいにリビング博物館に着いた。
キャオ君、ダム君と再会
昨日会ったキャオ(Kxao)君とダム(Daqm)君が迎えてくれた。本当に自転車で4時間半かけて来たと知って驚いてくれた。確認はしなかったが、この驚き方からすると、これまで自転車で来たような奴は私一人くらいだったのではないか。
ダム君は、通訳のキャオ君がたまたま村で会った友人だと思っていたが、やはりここで働いてい同僚だったのだ。改めて聞くとキャオ君(39歳)は、ダム君(30歳)のおじさん当たるとのこと。昨日は8人の外国人観光客が来て、夜のキャンプファイアーを囲んでの村人総出の踊りなどもあったという。きょうは、私一人だ。そのためわざわざ2人が残ってくれたようで申し訳ない。
プログラムの一覧表を見せられたが、私は最も簡単そうな「ブッシュ・ウォーク」(サバンナ歩き)1時間半220Nドルを選んだ。事情を話して30分くらいの短縮版でお願いするようお願いした。250Nドルを出すと、お釣りがない、と言ったが、もちろんそれはチップですよ、とええカッコした。一人のためにわざわざ対応してくれてこちらこそ申し訳ない。
狩猟採集民、現れる
入り口付近の建物や土産店のあるあたりから少し入ると、昔と同じ簡素な藁ぶきの屋根のような集落が現れた。そこでダム君がどこかに消えた。「どこに行ったの?」と聞くと、キャオ君が「伝統的衣装に着替えてくるのさ」。
しばらく伝統集落を見学していると、何と半裸の狩猟採集民がブッシュの中から現れたではないか。ダム君だ。なんと、そういう役だったか、ダム君よ。さっきまでの普通の服を着たダム君は、むしろ現代風の若者だが、突然、変身してしまった。
そして彼が主導してブッシュの中を案内する。いろいろな木の種類や、食べられる植物や毒、採集の仕方、動物の足跡、数日前のだろうという象の糞…。いろいろなものをサン族の言葉で説明して、それをキャオ君が英語に訳す。私は、ダム君の変身への興奮も収まらないまま、熱心に説明に耳を傾け、写真を撮った。
起業家精神
サン族見学が目的で来たのに、私は30分で切り上げて、そそくさと帰路につく。リビング博物館の周りには実は実際のサン族の村カホバ(//Xa/hoba)がある。遠慮して写真は撮らなかったが、ツムクェほどではないが活発な集落生活があるようだった。伝統家屋ばかりでなく、テントなどもあり、ペットボトルのゴミなども落ちている。
前からラジカセの音楽が聞こえてきた。ソウル音楽か、あるいはナミビアのポップミュージックか。こっちに歩いてきたその若者2人は、前から来る私を見つけると音楽を止めた。伝統的サン族の生活を見学に来たのに、そこでラジカセ音楽を聞かせたらイメージ丸つぶれだろう、と思って止めたか。集落全体がリビング博物館事業に協力しているのを感じた。リビング博物館の収益は村に入り、貧困にあえぐサンの人たちの貴重な現金収入になる。個々の博物館の運営もコミュニティが担っているという。
キャオ君、ダム君と前日に会わないで、いきなりこのリビング博物館に来て、しかも大勢の訪問者とともに、村人総出の狩猟採集活動、各種伝統行事を見たりすれば、私の印象も変わっていただろう。もっと神妙な顔をして「狩猟民族の文化」に真剣に見入ったかも知れない。しかし、現代青年の二人が、突然狩猟採集民になったりして案内してくれると、何か可笑しい気持ちも少しあり、別の理解の仕方になった。決して「本物じゃない」など突っ込みを入れるのでなくて、そういう伝統を復活・維持させようと必死にこの事業を行なっている彼らの姿に、また別の意味から好感をもった。
キャオ君、ダム君、がんばれ。伝統を伝え、村の経済活動を行う。村総がかりの起業家活動だ。ここの村民たちは起業家精神にあふれている。物乞いするサン族をたくさん見てきたので、彼らのような積極的な生き方に希望を感じた。今後この事業がさらにさらに伸びて行くことを心から願う。
帰りはよいよい
行きはよいよい帰りは怖いと言うが、この場合、逆だ。2人との交流で元気が出た。長時間ライドで固まった体も、歩き回ってほぐれた。意気揚々と砂利道の復路に入る。そうだ、私はフルマラソンも走ったではないか、1日18時間10万歩も達成したじゃないか、真夏のバスケでスポーツドリンク2リットル飲むが、まだ水1リットルしか飲んでないじゃないか、1日11時間カラオケもやったじゃないか(これは関係ないか)…。
ひたすらこぎ続ける。昼過ぎのサバンナの日差しはきつい。顔がほてってくる。ちょうどよいはずだった1.5リットルの水は、最終コーナーに差し掛かるあたりで飲み干した。最後のツムクェ村に近い前述砂道ではへたばってきて、頻繁に日陰で休む。もはや、野生動物への警戒などどうでもよくなった。頭がもうろうとして熱中症の1歩手前だったかも知れない。
村に着いた
最後のながーい砂地が終わると、村は近い。砂利道は砂地よりはるかにありがたい。自転車に乗れさえすれば、ともかく踏めば進む。
村の十字路到着。ハロー、ハローの呼びかけに応えず、行きつけのお店に直行し、1リットル・ロングライフミルクを買った。スポーツドリンクがない所では、牛乳が代わりだ。「体液」だからミネラルなどスポーツドリンクと同じ成分が入っている。飲みすぎると下痢するが。
ぐい飲みして、店の前の長イスに腰掛け、ぐったりしていると、さっそくいつも居るサン族のおばさんが近づき、執拗に何かをねだる。
「やめてくれ、俺は今、しゃべるのもやっとなんだ。」
私が消耗しているのと同じくらい彼女も空腹で参っているのかも知れない(それにしては元気よく迫ってくるが)。しかし、この時ばかりは、怒りが込み上げてきた。期待しているんだからしっかりしてくれ、サン族。モデルもあるじゃないか。伝統を基礎にしたビジネス、生業を立ち上げて誇り高きサンを再興してくれ。
席を立って自転車を返しに行く。近くのバーに行けと言われていた。貸主のカヤ君は居なかったが、その友人たちが居た。「おお、カヤか。知ってるぞ。友達だ。そうか、彼の自転車を借りたか。ここに置いていけ。」
そこから宿に向かう。まだ約500メートルある。歩くのがつらい。途中で警察署の庭にイスとテーブルがあるのを見つけ、休憩。警察官が「何をしているんだ」と迫ってくるが、私が外国人だとわかると(そしてぐったりしているのを見ると)知らんぷりして去ってくれた。
カントリー・ロッジでお世話になったネルソン君が通りかかった。彼とはロッジ外で、友人としてもっと話したかったが、こういう時に会うというのはあいにくだ。話す気力がない。近況を少しだけ話し合っただけで別れた。買い物に来ていたらしい。
あと300メートル。休んだので歩く力が出てきた。下を見て、村人に声もかけず、やっと宿に着き、ほっとした。と思ったその時、
顔を上げると、な、何だ、この最後に、チーターが目前に現れた! 車の荷台の上から、精悍な姿でこっちを向いている。
どぎもを抜かれたが、動かない。そうか剥製か。それにしてもよくできている。客が自分の車の荷台においた飾りだろう。部屋に入ってねっころぶ。全身、埃まみれ、砂まみれで、すぐシャワーを浴びなければならないが、その力を出すため、まず休む、という状態。
こんなに消耗し、熱中症の一歩手前まで行ったのは、高校の時、長距離走大会でへたばった時以来だ。50代でフルマラソンを走ったときもこれほど消耗はしなかった。60年近く前のあの長距離走のとき、最後の頃、手は振るものの、ほとんど前に進まなかった。ゴール後、保健室に直送。保健室のベッドに倒れこんでから、「やり切ったぞ」という達成感がおそった。あの時と同じ気持ちが湧いた。青春している…。
リビング博物館設立の経緯
サン族を支援する法律支援センター(LAC)の報告書に面白い情報があった。カホバ(||Xa|hoba)村とそのリビング博物館設立経緯について解説している。以下、翻訳。
「カホバ村はツムクェの北24キロ、カウダム国立公園へのルート上に位置する。すべて村民は[サン族内のサブグループ]ジュホアンシで、ほとんどが拡大家族の構成員だ。村民と結婚して転入してきた者も何人かいる。 調査対象者からの聞き取りでは、村には20世帯が住む。このカホバ村に嫁いできた一人がグラシュック(Grashoek)出身だった。[隣の]ナジュクナ保全区(N‡a Jaqna Conservancy)内にある同じくジュホアンシの村だ。グラシュックにはリビング博物館の観光事業があった[注:同地のLiving Museum of the Ju/’Hoansiはナミビア初のリビング博物館で、この成功により各地にこうした博物館が普及した]。婚姻を通じたこのガショフックとのつながりが、カホバ村民を感化し、自村で同様のプロジェクトを始めるきっかけとなった。カホバ村は2009年に、リビング文化財団から訓練、助言、標章作成、宣伝の支援を得てリビング・ハンターズ博物館を立ち上げた。その他の助成や支援はなく、調査時点では、村民自身がプロジェクト全体の運営を行っていた。観光客が着くと、村民は日常服を伝統的衣装に着替え、客をブッシュウォークに連れ出す。伝統的踊りを披露するなど、客の関心に沿って様々な伝統活動を行う。少なくとも村人の一人が英語に長け、観光客のため通訳を行う。収益はそのとき関わった村人の間で分け合い、一定部分は村の基金に入れ、村全体のための出費に使われる。このプロジェクトの存在はコミュニティ自足の支えとなり、カホバ村での伝統活動と観光事業への関心を極めて高いものにしている。」(p.101)
後日記
その後もツムクェ村でキャオ君と何回か会った。どうも、リビング博物館を訪れる観光客が少なく、村で暇つぶしをしているようだ。この中心村にも親戚、友人がたくさん居るので泊まるところには困らない。一日中だべる相手にも困らず、お店の前などで友人たちといっしょに居るところでよく会った。
「6日にあなたが来て、その後、全然お客なしだよ。次は25日と26日にグループが入っている。だれか来る人居ないかね。」
「さあ。ナミビアでは日本人にだれも会ってないよ。悪いな、力になれなくて。」
やはり、主要道から遠く、道も悪いことが影響しているようだ。主要道B8号線からちょっと入ったところに、もう一つのリビング博物館The Living Museum of the Ju/’Hoansi-Sanがある。まあ、そこに行けばいいや、となってしまう人が多いのではないか。
「でも、ほんとは皆『サン族の首都』の近くの博物館に行きたいと思っていると思うよ。政府に道路舗装をお願いしたらいい。」
サンの人々は正当な手続きで社会的に発言することがまだ弱いのではないか。がんばって欲しい。