沖積平野農業で不利に
那須国の都であったこの地域はなぜ衰退したのだろうか。基本的には、平地・農地の狭隘さから農業の経済基盤が弱かったからだ。関東平野の大規模な低地農業が発展するについて、この地域の重要性は薄れる。
大まかな地図では気づきにくいが、この地域は関東平野ではない。西部に高原山系の火山活動によってつくられた塩那丘陵(喜連川丘陵)が広がる。高くはないが、うねうねと丘陵が続き、ゴルフ場建設にはもってこいで激増したが(グーグルマップで数えると16カ所ある)、稲作には適さない。旧小川町あたりからいくつか「山」を越えて氏家付近の広大な平地に出ると「おお、関東平野に出た」という感じになる。
塩那丘陵の北は扇状地の那須野が原で、歴史的に水利が悪く、やはり農業には適さなかった。しかし、明治になって大規模灌漑事業、那須疎水の開削が行われた。比較的平らな北部地域に大規模な水田が拡大し、今では、那須国旧都地域を凌駕している。
交通の要衝ではなくなった
農業の相対的地盤沈下以外に、もうひとつ、交通の要衝としての地位を失ったことがある。
前述の通り、那珂川を通じて太平洋岸とつながり内水交通を経て東京湾側ともつながるこの地は、近世まで、特に古代には交通の要衝で、東北内陸に行くのにも重要な地域だった。それで、蝦夷侵攻を図るヤマト王権にも重視された。しかし、対蝦夷の前線が東北北部に上るにつれ、この地の戦略的重要性はなくなった。
7世紀半ばにはヤマト王権の勢力圏はすでに阿武隈川河口に及んでいた(岡本雅享『民族の創出』岩波書店、2014年、pp.260-261)。それ以前の侵攻がどう行われたか不明だが、宋書倭国伝には、478年に「倭の五王」の一人、武が宗皇帝に出した上表文の中に「東は毛人(えみし)を征すること五五国」という表現が見られる。この時にまでに55の蝦夷国を「征伐」したことを誇っている。8世紀末には現在の平泉付近まで前線を上げ、そこでアルテイに率いられた蝦夷軍が、桓武天皇が3次にわたり派遣した大軍と戦っている(788年、794年、801年)。その頃の東北侵攻には那須を経るより、海上交通を通じて直接仙台平野付近に出ただろう。仙台平野域内、さらには東北南部へのアクセスも、阿武隈川を通じて上った方が便利になっただろう。
蝦夷平定後も、関東から白河や会津など東北最南部向けには那珂川の水運もある程度利用された。前述の通り、特に江戸幕府ができて江戸が大消費地になってからはその役割は大きくなった。
しかし、歴史の流れとしては、土木技術の発展により陸上交通が次第に重要となり、特に弥生期の馬の渡来を契機に陸路が整備されていった。強力な中央政権を確立したヤマト国家は東国に至る主要街道として東山道をつくった。当初、この東山道は前述の通り、那須国付近で那珂川沿岸を走り、この地はなお陸路と水路の結節点として繁栄した。
が、この陸路は歴史的に徐々に北西側に移動する。未開発の那須野が原地域を通るようになる。江戸期に整備された奥州街道は、那珂川沿岸ではなく、佐久山、大田原など那須野が原中央部を横断する。会津藩などが開発した米輸送のための脇街道「原街道」(原方街道、米街道、米積街道)はさらに山側を通っていた。白河方面から下野国中央部(ひいては関東南部)に至るには、那珂川本流を始め、箒川、荒川など多くの那珂川支流を越えていかなければならない。できるだけ上流部で渡河した方が、陸路交通にはよい。加えて、農業に適しなかった那須野が原、喜連川丘陵地域でも、川沿いを中心に開発が進み、人々の居住も増えていた。
*那須野が原は「日本のように長い歴史を持つ国の中でも、わずかに100年程度しか歴史がないというのは珍しいことかもしれません」といった認識が地元からも出される西部フロンティア地域だ。水利が悪く歴史的に原野が広がっていた。しかし、徐々に開発が進み、特に明治期に建設された那須疎水により、この地に農地と人の居住が広がった。以降、旧那須国の重心もこちらの方に移っていく。
鬼怒川水運に競い負け
さらに頼みの綱、水運でも、那珂川は鬼怒川の後塵を拝するようになる。江戸時代の「利根川の東遷」により、江戸に向かう水上交通は鬼怒川が圧倒的に有利になった。独立して銚子方面に流れていた鬼怒川(下流で常陸川)は利根川とつながった(その支流になった)。
それまでは東北から多くの河川・丘陵越えを経て鬼怒川に出ても、鬼怒川は銚子にしか行かず、先の海路には房総沖の難所が待っていた(実際はそれを避け、陸送で利根川に出て江戸に向かう内水ルートをとった)。それなら、早々と那珂川で積み替え水運で行った方がよかった。しかし、鬼怒川から直接利根川に出られるとなれば、関宿までさかのぼり江戸川に入ればスムーズに江戸に行ける。上記の通り奥州街道など陸路もより上流で諸河川を渡河するようになったので効率がよくなった。東北からの物流の多くが那珂川で荷替えをせず、鬼怒川の河岸(氏家近辺の阿久津河岸など)まで直行するようになった。
鉄道が河川交通にとどめ
明治になるとさらに水上交通自体が決定的打撃を受ける。鉄道設置が河川交通を時代遅れにした。帆船が川を登る悠長な風景は下流部以外見られなくなる。那須地域では、鉄道は奥州街道よりもさらに山側を通った。この地の主要城下町・大田原さえもルートからはずれ、未開拓であった矢板、西那須野、黒磯などの地域を通った。
また、今では忘れ去られているが、この地には、西那須野から大田原、黒羽、小川を結ぶ私鉄・東野鉄道も走っていた。1918年に西那須野 – 黒羽間で開通し、1924年に小川まで延長された(那須小川駅)。さらに大子まで延長して水郡線とつなぐ計画があったが、昭和恐慌で御破算に。むしろ箒川鉄橋の台風被害などで、1939年に黒羽・小川間が廃止。残る西那須野・黒羽間も戦後の1968年に廃止された。高校時代、まだ残っていたこの大田原区間で線路の歩き通学をして、先生にしかられていたのをなつかしく思い出す。
それはともかく、この東野鉄道も那珂川水運には決定的打撃だったようで、『黒羽町誌』は次のように記す。
「明治40年(1907)になると、黒羽町の廻漕船数は姿を消し、僅かに艀魚船、小廻船が30艘となり、廻漕業者も明治26年(1893)には3軒であったものが2軒に減じている。収入金額も那須郡統計書によると明治26年の208円が、明治40年(1907)には38銭となり、黒羽河岸の水運は明治末期には益々衰退の色を濃くした。/このように、細々と営業を続けていた黒羽河岸に対して、決定的ともいうべき影響を与えたのは、東野鉄道の開通である。東野鉄道が大正7年(1918)黒羽、西那須野間に開通するにおよび、今まで、那珂川を利用し輸送されていた品物は、その後東野及び国鉄で全国各地に輸送されることとなり、近世以来物資輸送に活躍した黒羽河岸はついに廃業に追い込まれることとなった。/黒羽河岸の廃業後を調査した阿久津正二氏によると、川船の船頭や筏師のなかには、那珂川下流や鬼怒川沿岸に仕事を求めて移住した者がいるという。また河岸付近の飲食店業者の中にも、鉄道沿線の黒磯などに転居した者がいるという。」(p.636)
戦後、交通ルートはさらに西へ
戦後開通した東北自動車道はさらに山側を通る。空いている土地にこそ建設しやすいのだから当然と言えば当然。開発の進む那須野が原方向に居住地はどんどん拡大していく。かつての那須国の都、那珂川・箒川合流付近は交通ルートから完全に外れ、さびれていった。
が、しかし、それだからこそ、古代のロマンを秘めたこの地には美しい山河が残され、首都圏に近い隠れた魅力の地として人々の関心を集め、21世紀、22世紀に再び大きな発展期を迎えるのだった。おしまい。
那須国物語のお薦め絵本『アユルものがたり』
那須の国の物語について、すてきな絵本があるので紹介する。山中桃子作・絵『アユルものがたり 那須のくにのおはなし』(アートセンターサカモト、2012年)だ。
遠い昔、ある嵐の晩の翌朝、不思議な舟に乗った少年、アユルが那珂川上流から流れてくる、と物語が始まる。那珂川・箒川合流地点あたりの小さな村。渡来人、この川に棲むアユ、沿岸の和紙産業、武茂川の砂金、まほろば伝説などのモチーフを織り交ぜながら、アユルと村人たちの交流が描かれる。
作者の山中桃子さんは、文学者・立花和平氏(1947年~2010年)の長女。立花さんが温めていて実現できなかったモチーフを娘さんが絵本の形で実現したということらしい。立花さんは宇都宮市出身だが(那須と毛野の中間文化圏)、那須国に思い入れがあったようで、ありがたいことだ。
見たこともない舟でやってきて最初は言葉も通じない異邦人アユルは、明らかに渡来人をモチーフにしている。地域で紙のつくり方や砂金の採り方を伝授していく。山中桃子さんは、よく歴史を調べ、しかもそれを抒情的な物語にまとめあげている。
しかし、この渡来人少年が「近づくと、すいかのような、うりのような、透き通ったうす甘い香りがふぅんわりぁりとした」というのはいったい何だろう、と不思議だった。が、後で、そうかこれは渡来人と同時に魚のアユもモチーフにしているのだな、とわかった。アユルという名前からしてそう気がつかなければればいけなかった。
那須国という美しい郷土に生まれ育った子どもたちにぜひとも読んであげたい絵本だ。