遠い世界に旅立つ

ブルックリン・サンセット公園の木立。
木々の緑と光が美しい。(近くのサンセット公園で)

朝一番のメールで友人の死を知った。サンフランシスコ時代(1990年代)に息子たちの家庭教師をしてくれていた人。息子がフェイスブックをたどって見つけたなつかしい人のページに「ガンとの戦いに敗れた」という第三者からの報告が載っていた。この3月。まだ51才だった。日本語も話す貴重な人材だった。最近では東京に長く住んでいたがオレゴンで亡くなったという。しばらく連絡をとっていなかった。彼からの最後のメールを探したら12年前、私の田舎に案内した時のお礼が書いてあった。

一日中、沈鬱な気持ちになった。人が死ぬということは悲しい。彼が死んでも彼の記憶とその影響は息子たち、私に残る。しかし、やがて、記憶を宿した人々が滅びるとともに彼の記憶も消え去る。ネット上どこかにはちょっと長く残るだろうが。

人の平均寿命は80才前後だ。しかし、60代後半ともなれば親しい友人の何人かが亡くなる事態に少しずつ遭遇していく。かつての友人、知古に送っている個人通信(数年に一度)も、毎回、エラーで返り返されてくる宛名が一定数ある。メルアドを変えた場合もあるだろうが、鬼籍に入られた方も居るかも知れない。

公園のイスに座り、鮮やかな緑の木々を見ながら、亡くなった前の職場の同僚を思い出した。この世界を去っていくのかと思うと、木々の緑も光もまわりの人々にもたまらない愛着を感じる、というような辞世の言葉が葬儀で紹介された。

「遠くに旅立つ」。それは本当に遠いところだ。それに比べれば今まわりに存在するあらゆるものがたまらなく身近で、愛着を感じるものとなる。数十光年先の、スペクトル解析で辛うじて存在が推測される太陽系外惑星も身近な存在だ。私たちが生きる世界の一部であることに変わりない。宇宙の果ての宇宙誕生直後の姿を照射する数百億光年先の天体も非常に近しい。私たちが生息した「存在」の中の一部だ。ましてや地球上で数億年前に絶滅した恐竜も、太古の海の微生物も、私たちと血を分けた肉親のようなもので、旺盛な木々の緑ともどもたまらない愛着を寄せる対象となる。これらすべてを離れ、私たちは本当に遠いところに旅立っていく。