「ガナ」とは何か
初めてアメリカに来た頃(1970年代だ)、米国人が「ガナ」「ガナ」と言いながらしゃべっているのを聞いて何だあれは、と思った。やがて「going to」(「~するぞ」という未来形)のことを普通の会話ではそう言うのだと知って驚いた。日本の英語教育ではそんなことはまったく習わなかった。私はある程度英語ができる方だと思っていたし、半年のアジア旅行で外国語として英語を使う人々の間である程度意思疎通ができたと思っていたのだが、アメリカに来てカルチャーショックの連続だった。
そのうちだんだん現場英語力が付いてきたが、不思議だったのは、大学の授業で先生が話す英語は比較的理解できるのに、ゼミの討論の時間になって学生がペラペラ話しだすとよくわからないこと。さらに、映画のナマの会話はもっとわからなかったこと。いや、映画はまだ映像の助けがあるので救われるが、街頭で人々が交わす会話が、傍らで聞いてもまったく理解できない。1対1で面と向かって話すと理解できるのは外国人にもわかる英語を話してくれるからだろう。ネイティブ同士でペラペラやっているのを聞くとわからない。大学の講義より、街頭の話し言葉の方が難しいというのは、何なんだこれは、と思った。
問題はスラングではない
最初は、日常会話ではスラングがたくさん使われているからだろう、と思った。しかし、どうもそうではないようだ。映画の会話を書き起こしたのを見ると、非常に簡単な言葉で話をしている。書かれればわかる。しかし話されるとわからない。話し言葉の発音が書き言葉とかなり違うとはっきり気付いたのは、カラオケで英語の歌を歌うようになってからだ。歌詞を見ながらネイティブ歌手に合わせて歌うが、どうも微妙に違う。何でなんだ、と何度も何度もテープを巻き戻し、歌詞と比べてみて徐々に分かってきた。なんだ、andとかhisとかherはほとんど消えているじゃないか。The moon is fullはムーニズ・フルか。ザは気持だけ付いている。え、What it isはワリリズか…。いろいろ発見があった。
結局、英語、特にアメリカ英語というのは、しゃべるときにかなり発音が変化してしまうのだ。日本語だって「すみません」が「すいません」、「すごい」が「すげえ」、「丁寧(ていねい)」が「てーねー」、「している」が「してる」、「してしまった」が「しちゃった」になるなどある程度変化するが、米語はそれが極端な気がする。折り目正しい教科書英語しか習わなわい日本人が、米語の簡単な日常会話に苦労するというのはその辺の事情がある、ということがだんだんわかってきた。
言語の「体質」
プールサイドで、たまたまドイツ人同士が話しているのを耳にした。もちろん、ドイツ語は理解できないが、一つ一つの単語を語気強く発音するドイツ語は、どういう単語を繰り出しているのか個別にわかるような気がした。英語に何年も時間をかけているのにいまだに聞き分けられなくて苦労している。何てこった、とうらめしくなった。(お、「何ってこった」も「何ということだ」の口語型だな。)
言語にも「体質」のようなものがあるようだ。英語でも、アメリカ英語よりイギリス英語の方が、几帳面に口をとがらせて個々の単語を発音してくれる感じがある。米語は、しゃべり方がリラックスしているというか、たるんだ口元で「ワウワウ」「ラウラウラウ」と言っているようだ。そういう風にしゃべるとネイティブ風に聞こえる。中国語(北京語)は、かなり甲高い声でクリアに発音する言語のように思われる。
東北弁は米語的
日本語も甲高いトーンで単語をきちんと発音しようとする言語だと思う。日本語でも東北弁はゆるい口元から低音を発するリラックス言語で、米語に似ている。米語特有と言われるあいまい母音もある。しかし、東北弁は標準語にならなかった。甲高くきっちり発音する東京山の手弁が標準的な言語体質になった。東京人は「ひ」と「し」の区別がつかないと言われるが、私の考えでは、これはhのホンワカした語感をできるだけはっきりしたきつい言葉にしようという東京弁の意識がそうさせるのだと思う。逆に関西では、できるだけ「はひふへほ」の柔らかい言葉を使おうとする。質屋->ひちや、七->ひち、それなら->ほんなら、山田さん->山田はんなどと変わる。後述するような東京弁で母音が欠落する現象(例:国際koksai、歴史reksi)もきつく明瞭に発音しようとする意識が背後にあると思う。
リラックスして省エネ発音する言語
小学生くらいの娘を連れて渡米してきた日本人の友人から聞いた話だが、徐々にバイリンガルになってきた娘は、英語を話すときと日本語を話すときで声の高さが違うと言って不思議がっていた。日本語のときは高く黄色い声でしゃべるが、英語を話すといきなり低い声になって、言葉が喉の奥から出る、という。なるほど、これはうちの息子でも、思い当たるところがある。日本に居た頃の保育所の録画を見て、え、あの子はこんな甲高い声で話していたのか、と意外に思った。もちろん成長に従って声帯も太くなっていくが、それとは別に、日本語の場合、話し方が高い方のキーをねらって発音している感じなのだ。英語の場合はやはりゆったりして低い声になる。いろんな意味で英語(米語)は、リラックスして省エネで発音する言語だと思う。
直後の音に引きずられて発音が変わる
日本の英語教育の中でもなぜかhave to、has to、had toだけは「ハv・トゥー」「ハz・トゥー」「ハd・トゥー」でなくて「ハfトゥー」「ハsトゥー」「ハtトゥー」と発音する、と教えられる。直後の語の無声音(声帯を震わせない音、この場合t)に引きずられて直前の有声音(声帯を震わせる音、この場合v、z、d)が無声音化する(この場合f、s、tになる)。専門用語では、逆方向から同化作用を受けるという意味で「逆行同化(reverse assimilation、regressive assimilation)」というらしいが、これは単にhave toなどの場合に限られず、他にも広く見られる。good menはグッdメンだが、good peopleはグッtピープルになる。(もっとも、口語英語のもう一つの特徴、語尾の子音がほとんど消えるという現象から、グッメン、グッピープルのように聞こえる、と言ってもいいのだが)。drugstoreのgは会話の中ではkに、lobsterのbはpになる。used to (~したものだ)は「ユーzd・トゥー」ではなくて「ユーstトゥー」。直前のd音だけでなくてその前のz音までも無声音化している。日本人の発音間違いでよく指摘される語にsmoothがある。正しくは「スムーズ」だが、日本語(外来語)では「スムース」という言い方が普及してしまった。ズよりスの方が「スムース」に聞こえるからか、と思っていたが、これも「逆行同化」が関係しているかもしれない。直後の単語に無声音が来た場合、「ス」と発音されているだろう。smooth walkingは「ズ」だが、smooth parkingは「ス」になっているのでは。
have toの場合、toの音をきちんと発音してくれることもまずなく(これも口語英語の別の特徴で、付属語的な単語は省エネ発音になる)、「ハフタ」と言われてしまう。「ハブ・トゥー」を期待していても「ハフタ」と飛ばされては聴き取れないのも無理がない。
口語の音変化を日本語でどう書き表すか
米国のNPO活動で非常に重要な活動をしているDrummond Pikeさんという人が居る。私の本(『サンフランシスコ発:社会変革NPO』御茶の水書房、2000年)でも大きく扱い、日本に呼んで全国各地で講演もして頂いた。この人の名前の日本語表記を私は「ドランモント・パイク」としていた。私にとっては彼は「ドランモント・パイク」以外ではあり得ず、スペル通りの読み方「ドラモンド・パイク」とは書けなかった。しかし、日本人から見ればこれは変だ、ということになる。Drummondは単独で発音すれば、ダイアモンドがそうであるように「ドラモンド」であり、「ドラモント」ではない。
なぜ私は「ドラモント」にこだわったのか、その時十分には説明できなかったが、やはりこれは直後の姓Pikeが無声音Pで始まるため、逆行同化で無声音化するからだろう。名前と姓を連続して言えば、Drummondの終音dはtのような発音になる、ということだ。(厳密に言えば、最後の子音がほとんど消えるという前述の英語口語の特徴から「ドラモン」となり、さらに厳密に言えば、後述する別の英語口語の特徴から「ヂュラマン」のような発音になる)。
日本語では普通、人を名前だけで呼ばない。「ドラモンドさん」ではなく「パイクさん」と姓で呼ぶ。名前を出すのは、名前と姓、全体を言うときだけだろう。だから「ドランモント・パイク」でいい、と私は判断していた。しかし、確かにこれは説得力がない。発音をできるだけ正確に日本語にするというなら「ヂュラマン・パイク」にすべきだし、そうでないなら、「ドラモンド・パイク」と、もともとの構成要素がわかる表記を採用すべきだということになる。
そこで私も妥協して、「ドラモンドでもいいですよ」ということにした。これが正しい対策だったのかどうかわからない。キャンペーンの途中で名前が変わってしまうのはいかにもまずい。ポスターなどを書き直す必要も出てくる。各地の講演主催者はその後は「ドラモンド」方式にしたようだが、私は相変わらず「ドラモント」にこだわっていて、その後に出した著書の中でも「ドラモント」を使った。名前は重要だ。一字違いでも例えばウェブの検索結果に出てこないなど問題が出る。あの時私はどうすればよかったのか。最初から「ドラモンド」にしておけばよかったのかも知れないが、今に至るまで私は引っかかっている。
補追(2024年9月記)
後に、この問題を扱ったずばりの記事を見た。デビット・ベネット(David Bennett)さんという日本語にも堪能なネイティブ英語話者が、自分のDavidという名前をデビッドでなくデビットと日本語で表記している。『東洋経済』の連続コラムで、なんでそうしているのか書いてくれと編集者から求められ、この記事を書いたという。私の場合と同じだ。私も、Drummond Pikeをなぜドラモンド・パイクでなく、ドラモント・パイクと言っているのか、間違いではないのかと問われたわけで、まさにどんぴしゃり同じ問題を解説している。
デビットさんは、Doorなど語の前の方に出てくるDと違って語尾に現れるdは別の音なんだと、専門用語を使い次のように説明している。
「「David」の語尾の「d」は有声歯茎破裂音といい、同じ有声音でも息で舌をはじくようにして発する音となり、「ッドゥ」のように発音します。この音を日本人のネイティブな耳で先入観なしに聞くと「ットゥ」という清音に近く聞こえることがあるようです。「ットゥ」は声帯が震えません。喉に手を当てて発音するとそのわずかな違いがわかります。Davidの「ド」はドアの「ド」よりも「ト」に近い音なのです。」
確かにそうだろう。語尾のdは軽く舌を添える程度の弱い発音で、もともと有声音か無声音か区別がつきにくいような音だった。ウームこれを「有声歯茎破裂音」というのか。氏は、次に来る語が有声音か無声音かによる影響は考えていないようだ。実際、自分の姓Bennettは有声音で始まっているが、それでもDavidをデビットと記すとしている。
発音学をこれ以上深く堀されげられないが、少なくとも語尾のdは弱く軽く発音されるdであるのは確かで、次の語の有声・無声から特に影響を受けやすい音であるということは言えると思う。
「レット・イット・ビー」と「レリッゴー」
ビートルズの名曲にLet It Beがある。あれは日本語では「レット・イット・ビー」と呼ばれていた。まさに教科書風、英語教育風の読み方だ。それに対して数年前ヒットした映画「アナと雪の女王」中の名曲Let It Goは、ちまたで「レリッゴー」と呼ばれているようだ。この方が英語の原発音に近い。半世紀を経て、日本にも英語発音に関する認識の進歩があったか、と感慨深かった。
英語のラリルレロ
Let It Goがレリッゴーになるについては、3点の英語の特徴が指摘できる。まず、米語では、tの発音がしばしばラリルレロの発音になる。日本人が苦手な英語的なr音でない。dに近いrで、日本語のラリルレロにかなり近い。これは文の流れの中でも変わるが、単語の中でも変わる。よく引き合いに出される有名な例がwaterだ。米語ではこれはウォーターではなく、ウォーラー、さらには「ワラ」のように発音される。これはアクセントがない所だけで変化する。アクセントのある所では強いtのままだ。例えばattackはちゃんとアタックと発音される。
トヨタは「タヨーラー」
レリッゴーの発音には直接関係しないが、ついでに言うと、同様の米語式発音の特徴として、oが日本語の「ア」のような音になることがある。Tomはトムではなくタム、Topはトップでなくてタップのように聞こえる。以上2つの米語的発音を併せ持つ単語、例えばトヨタ(Toyota)はアメリカでは「タヨーラー」もしくは「タヨウラー」と発音される。CMなどで聞いても最初は何のことかわからなかった。Toがタになり、taがラになる。アクセントはヨーのところに置かれるので、タヨーラーだ。
単語をつなげて発音する
Let It Goに戻ると、これを「レリッゴー」にする第2の英語の特徴は、単語をつなげて発音してしまうこと。「レット・イット」ではなくてLetitになる。イギリス英語なら「レティット」というのかも知れないが、米語だと「レリット」となる。それで「レリットゴー」。しかし、ここでまた、単語の終わりの子音がほとんど消えるという英語のもう一つの特徴も作用して、Itのtが飲み込むような「間」だけになってしまい、「レリッゴー」になる。
ビートルズは米語で歌う
同様にしてLet It Beも実際には「レリッビー」になる。ビートルズはイギリスのグループだが、世界的なヒットを目指した彼らは、曲中でできるだけ米語的発音をしている。Let It Beもちゃんと「レリッビー」と歌っている。アメリカ人の友人が言っていたが、ビートルズの曲の歌詞はよく聞き取れるが、歌い終わって彼ら同士で話し始めるとよくわからなくなるそうだ。会話ではリバプール方言を使うからだ。英語は世界中で支配的言語になっているが、さらにその英語世界内部では米語が支配的な地位にある。他の英語「方言」の人たちは、世界市場に乗り出すためやはり米語を使わなければならないという悲哀を味わっている。
米語口語の発音変化まとめ
さて、以上の分析だけですでに下記1~4の英語口語の特徴が出てきた。これに5を加えて、話し言葉の中で化ける恐るべき英語(米語)発音の諸法則をまとめておこう。幸い、現在では、この分野の語学教育上の重要性がかなり共有されてきたようで、ウェブ上に詳しい説明がたくさん出ている。「逆行同化」などのキーワードで検索するとたくさん出てくる。英語のキーワードだと「Connected Speech」「Regressive Assimilation」などだ。Youtubeなど動画・音声でも説明があるのでわかりやすい。私は今でもこの問題に苦しんでいる身なので、偉そうなことは言えない。下記は、そうしたサイトを参考にまとめさせて頂いたもの。
1、複数の単語が連続し別の単語のように発音される
let itがレット・イットでなくレリット。その外にも、an appleがアン・アプルでなくてア・ナポー、Thank youがサンク・ユーではなくてサンキュー、Look atがルック・アットでなくルッカッ、get outがゲット・アウトでなくゲラウ、stop itがストップ・イットでなくてストッピッ、as soon asがアズ・スーン・アズでなく、アズスーナズ、take it outがテイク・イット・アウトでなくテイケッラウト、not at allがノット・アット・オールでなくナラッオー。数えだすとキリがない。これはもう特別のケースというより、口語英語の普遍的な特徴。あらゆる単語がつながって発音されるのが普通だと理解した方がいい。口語時の音韻変化を一般にConnected Speech(連続音声)と言っているが、その中でもこの単語をくっつくけてしまう現象が代表的なので、そう呼ぶようになったのだと理解する。
2、tが「ラリルレロ」に変化
これは前述の通り一つの単語の中でも起こるが、連続する語の中でも起こる。letはレットだが、let itではレリットとなる。get upはゲラップ、shut upはシャラップ、sort ofはソーラプ、この「ラリルレロ化」は専門用語ではTフラップ(T flap)と呼ぶらしい。なお、さらにntの場合はtが消えてnになる現象も見られる。有名なのはtwenty。トゥウェンリーとなるのが筋?だが、トゥウェニーという発音になる。今を時めくInternetも速く発音した場合、インラネット、さらにイナネットとなる。Santa Clauseもサンナクローズだ。
3、語尾の子音がほとんど消える
語尾の子音がほとんど消えて若干の「間」になってしまう現象。ビートルズの曲にGet backというのもあったが、あれももちろん、ゲット・バックでなくてゲッバッ。Good byeがグッド・バイでなくグッバイ、などなど。
4、同化
逆行同化についてすでに詳しく説明した。逆行同化があれば、当然、順行同化もある。だが、なぜか英語ではこれは少ない。せいぜい、名詞の複数形s、動詞の過去形d、三人称単数sを付ける際の語尾音声変化で見られる程度。無声子音の後はs、有声子音の後はzと発音される。parks、cupsなどの場合はs、dogs、problemsなどの場合はz、walkedの場合はt、livedの場合はdになる、という具合だ。英語に順行同化は少ないが、フランス語には多いという。なぜなのか、ということを人間の発声機構から深く掘り下げている面白い論文を見た。
同化には、逆行と順行以外に、融合同化というのもある。これは単語をまたいだ2音が融合して別の音になってしまう現象。またまたビートルズで恐縮だが、I want youという曲があった。あれはくっつけると「アイ・ウォンテュー」となるはずだが、「アイ・ウォンチュー」になっている。発音記号を書けないが、チュというまったく別の子音が出現している。その他miss youがミシュー、meet youがミーチュー、did youがディヂューになるなど。この現象は一つの単語の中でも起こる。trainがトゥレインを通り越してチュレインになる、driveがドゥライブを通り越してヂュライブになる。前出Drummondさんの発音も、ドゥラモンドでなくてヂュラモンド(ヂュラマン)になるのもこのためだ。(現代の日本語ではジとヂを区別しないが、もともとは違っていた。ジは舌先が上あごに付かない。ヂは付く。シとチの違いを意識して濁音化すればよい。)
5、付属的な単語はあまり発音されないか欠落する
これも非常に多い。簡単なところではandはかなり省略されnだけくらいになってしまう。Rock and Rollは「ロックンロール」で、書き言葉でさえRock ‘n Rollと表される(言文一致だ)。もちろんこれはロックンロール・ミュージックの場合だけでなく、他のあらゆるケースで起こる。bread and butter(ブレッドゥンバラー)、Jack and Betty(ジャックンベリー)などなど。その他接続詞、前置詞、代名詞など付属的な語はすべてこの省略の受難に合う。例えばLook at meはルッケミーだ。lookとmeは聞き取れるかも知れないが、atは聞き取れないくらい弱くなる。弱く発音される文節の母音は大抵の場合あいまい母音。atのaはあいまい母音化し、tも発音されずほんのわずかな「間」になっている。Look at himだとルッカリムだろう。別項を立てて説明しないが、him、his、herなどのh音は消えることが多い。それでルッカイムになるのかと思うと、t音(ラリルレロ音)が現れてきてルッカリムとなる。なかなか複雑だ。全体を一息で滑らかに発音できるよう音韻が自由に変わるようだ。日本語の場合は子音+母音という構成がずっと続くのであまり変化のパターンは多くないが、そうでない英語は変化が大きい。What are you going to do?はワダヤガナドゥーとなる。areやtoがかなり省略されている。youやgoingもややおぼつかない。「ワット・アー・ユー・ゴイング・トゥー・ドゥー」しか頭にないと、「ワダヤガナドゥー」と言われても何のことはわからないだろう。
英語は言文不一致か
その他いろいろあるが、この上記1~5が基本だろう。特に1と5が至る所に現れ、実際の会話は元の文と似ても似つかない発音になる。ある意味、英語、特に米語は書き言葉と話し言葉が乖離してしまった。言文一致の改革が必要だ、と叫びたいくらいだ。
英語のスペルにはknowのk、bombのb、nightのghなどまったく発音されなくなった文字がある。歴史的な変遷の中で発音されなくなったのだろうが、言文一致させないでスペルが残っている。しかし、これらは「発音しない」と決まっているからまだ扱いが簡単だ。本稿で見た話し言葉の音変化(connected speech)は、ゆっくり区切って話す場合には発音する、つまり本来的には消えていないからやっかいだ。本当は消えていないが、普通に話すと消える、変化する。だから「言文一致」で解決、というわけにはいかない。また、消える、変わると言っても、話すスピードによってその度合いも異なるし、人により、地域によって異なるので益々扱いに困る。
ネイティブ自身、気づいていない
これほどに変化する英語の発音に、しかし、ネイティブの話者は気づいていない可能性がある。さすがにgoing toをガナと発音すれば変えたと自覚するだろうが、drugstore(ドラックストア)でgをkに変化させても本人はそれを自覚していない可能性が高い。「ワダヤワナ・ドゥー」と言っても本人はちゃんとWhat do you want to do?と言ったと思っているだろう。I miss you(アイ・ミシュー)と言っても、スでもユでもないシュという別の音素が入り込んだとは認識していないだろう。
これは日本語での私たちの経験を考えてみるとよくわかる。日本語は英語ほど話し言葉に変化がないが、それでもまったく無いわけではない。「そうです。」と言い切った時の「す」は普通の「す」ではない。母音が消滅している。suでなくsになっている。京都弁で「そうどす。」としり上がりで言う時の「す」はちゃんとsuになっている。日本語が子音+母音で構成されるのが基本だとすれば、京言葉の方が正統派日本語になる。あるいは東京弁でも「山田ですが・・・、」と続ける場合の「す」はsuに近くなっているだろう。
日本語も話し言葉で音が変わる
文末の「す」はsuじゃない、ということを私は、日本語を教えている外国人学生から教えてもらった。「そんなわけない、これも同じ『す』だよ」と反論してみたものの、よく検討すると確かに彼の言う通り、母音抜けのsだった。その他、例えば「書く」と「臭い」の「く」も異なっている。前者はkuだが、後者はほとんどu音が消え、kだけになっている。ksaiだ。こういうのは返ってネイティブだと気づかない。日本語を学習する外国人の方が気付く。日本語学習者が「臭い」を「くぅさい」と発音して、そうじゃないんだ、と訂正しようとして初めてネイティブ話者が「kさい」と発音していることに気付く。他にも例えば「ました。」ではshiがshになっている。月でtsuがts、国際でkuがk、歴史でkiがkなど、母音を欠落させる発音が広く見られる。面白いことに、ネクタイでkuがkのみになり、スポーツでsuがsのみになるなどして、偶然だが英語のnecktieやsportsに発音が似てきている。こうした母音欠落は関東弁特有のなまり?で、アクセントも異なる関西ではあまり見られないという。法則的には無声子音の後のiとuが消えるということらしい。iやuが完全に消えるのでなく、「母音の無声化」が起こっているとする見解もあるようだ。
他にも、言いやすいからだろう、「すみません」が「すいません」になったり「君のウチ」が「君んち」になったりする。しかし、これらは砕けた口語表現で、正しい日本語とは見なされない。では、「反応」を「はんのう」と読むのはどうか。「応答」「対応」「適応」など「応」は「おう」と読む。しかし「反応」「順応」などは、やはり言いやすいからだろう、直前の「ん」に引きづられて「のう」になる。これは砕けた表現ではなく正当な日本語の地位を獲得しているだろう。漢字の読みのテストで「反応」を「はんおう」と書いたら×になる。
もう一つ、私自身の体験。私は自分のことを「僕」などとは言わず、きちんと「わたし」と言っている。ところがある時、同僚から「岡部さんは自分のことを『あたし』と言うんですね」と言われてびっくりした。自分では「わたし」と言っているつもりだったが、正式な場でも「あたし」と発音しているらしい。確かにちょっと力を抜いていると「わたし」は「あたし」になりやすい。落語にある通り、東京の下町では「あたし」がよく使われる。「あたし」への変化に甘い環境にいると、ついついそちらに引っ張られてしまうのかも知れない。そういう環境がない地域の人が聞くと違和感をもつのだろう。考えてみると、主語をはっきりさせない日本語では「私」がどんどん崩れ流されていく。わたくし->わたし->あたし->あっし->わし。あたし->あたいへの流れもあるし、方言も含めれば、わて、わい、われなど無数にありそうだ。
発音できないと聴き取れないか
語学教育の中では、聴き取りできるようにするためには発音できなければならない、とよく言われる。言えることと聴けることにどれだけ関連性があるのか、科学的な論証は見たことがない。しかし、経験的にはこれは当たっているように思う。What is your name?を「ワリズ・ユアネイム」と自分で言えるようになれば、そう言われた時、ああ名前を聞いているのだな、とわかる。「ユアネイム」は強調して発音してくれるだろうが、What isは「ワリズ」と流され、それがわからないと焦って全体がわからなくなる。
口語は別言語という覚悟で勉強し直す
良くも悪くも世界中に広がった米語を全体的に理解する上で、口語特有の音の変化に慣れておく必要がある、というのが本稿の結論だ。英語は、会話の中で音がかなり変化する。だからこの音韻変化の法則を、文法を学ぶと同じくらい重視して徹底して勉強しないといけない。これは私の英語学習歴の苦い反省であるし、日本の英語教育への提言でもある。米語のこんな崩れたような「癖」を学ぶ必要があるか、との反論もあるだろうが、少なくとも「英会話」と題名が付く授業ではこれをやる必要がある。「崩れた英語」でも米国人のほとんどがこのように話しており、その英語が世界中にあふれている。そして、言語は「自分がそれを発音できないと聴き取れない」。確かに、人により、スピードにより異なるような仔細な音の変化もあるが、前述5点、特に語句がつながる点、付属的な単語が弱くなるか消える点などはかなり普遍的に見られる。言葉が一まとまりの発音として滑らかに出てくるようにする英語に特徴的な仕組みとも受け取れる。一旦英語を学ぶ選択をしたからにはこの分野にまで突っ込むのが筋だろう。(「毒を食らわば皿まで」)
「ネイティブのようにしゃべれるようになる必要はない」というのも正論だし、非英語圏の人たちと意思疎通を図るとき(つまり共通語ツールとして英語を利用するとき)には、そのような話し方をしない方がむしろ通じる。「ガナ」などは使わないようにする、ということだ。
軽く書くつもりだったが、思いの外長くなった。英語で苦労し、それにもかかわらず進歩しなかったことへのうらみ、つらみが大きいということだろう。今では、Connected Speechの重要性は次第に認識され、語学学校の授業などに取り入れられつつある。ネイティブの教師も、以前は(自分で自然に話してしまっているので)この分野への自覚が薄かったが、最近はしっかり認識してくれるようになった。今後の英語教育に期待する。