映画ざんまい ー「シェルブールの雨傘」「雨月物語」「東京物語」「サーミの血」他、図書館のKanopy通じて

最近風邪を引き、家で映画を見る他なくなった。体調が悪いと気合が入らず、物書きできない。ダラーと映画を見続けるだけ。しかし、それが楽しみでもあり、病気するのをある意味待っていた。

昔は映画を見るのは映画館。病気の時は見られなかった。ビデオ時代になっても、ビデオ屋さんまで行って借りてくるのがきつい。しかし、今なら映画ストリーミングサービスで、家で寝ながらスマホで映画が見れる。ニューヨークの図書館ではKanopyというストリーミングサービスを通じて無料で映画を見られるサービスがある。ふんだんに往年の名画を見させて頂いた。

(ニューヨーク図書館のKanopyサービスでは名画、インディー作品、ドキュメンタリーなど約3万本が視聴可能。品質に定評のあるクライテリオン・コレクションからの約400本を含む。Kanopyサービスはそれまで大学など教育機関経由が中心だったが、昨年から全米の公共図書館からもサービスが提供されるようになった。ニューヨークでは昨年8月からNew York Public Library (NYPL)Brooklyn Public Library(BPL)がサービス提供開始。ライブラリーカードさえあれば、自宅などからでも前者で月10本、後者で月6本の映画が無料で見られる。視聴期間は各作品3日。アメリカの公共図書館はデジタル時代になかなか敏捷に対応している。ちょうど今、アメリカ公共図書館の「電子図書館化」動向を書いていたところだった。後ほどアップするので、請うご期待。)

ハリウッド映画

Summertime(「旅情」、英米、1955年)は、主人公のベネチアの体験を強引に「旅情」の枠内に収めたラブストーリー。その意味でこの日本語邦題「旅情」は極めて適切だ。同じような邦題の別の映画「慕情」(Love Is a Many-Splendored Thing、米、1955年)は決してほのかな愛の物語でなく、激しく切ないラブストーリー映画だったが、こっちの映画はまさに「旅情」とするに適切な命名。さすがハリウッド映画。分かりやすく強引にぶった切ってくれた。主演(キャサリン・ヘプバーン)のキャラクターもあり、それが不自然ではなく、爽快な後味にまとめられたのはよかった。

「シャレード」(米、1963年)は、隠された25万ドルを巡って元スパイたちが手練手管の抗争を続けるサスペンス映画。それに巻き込まれた女性レジーナ(オードリー・ヘプバーン)と黒幕の一人(最終的には米大使館重責者と判明)のブライアン(ケーリー・グラント)のラブストーリーでもある。だれを信じてよいのかわからないくらい、元スパイたちの正体が次々に変わる。なぜこんな映画を見たのかわからない。以前から「シャレード」の映画音楽に頭にあったので、どういう映画だろう、とつい見てみてしまった。

シェルブールの雨傘

「シェルブールの雨傘」(仏、1964年)には感動した。人と人の出会い、しかし、それでもすれ違ってしまう非情さ。そうした人生に常に起こる行き違いと切なさをよく描いていて、心を絞られる。決して明示的には表現されない(愛の言葉自体は派手すぎるくらいだが)。抑えながら、切なさで心を締め付ける。最後の2人が短く再会するシーンにすべてが凝縮されている。

美しいフランス語が益々美しく感じるミュージカル方式の映画。主役の美男美女たちがにくい(ギイ役のニーノ・カステルヌオーヴォと、ジュヌヴィエーヴ役のカトリーヌ・ドヌーヴ)。不男とおばさんではラストシーンの盛り上がりはないか。観客はそれまでに2人に恋してしまっており、だからラストシーンが切なく迫る。

いや、たまたま入ったガソリンスタンドで元カレと元カノが短時間バッティングする、なんてことは常人の人生でもあることだ。少しドキッとはするかも知れないがここまでドラマチックにはならない。この映画はそれをありとあらゆるお膳立てで盛り上げる。何よりも、雪の夜だ。これだけで舞台装置がまったく違う。ギイの妻が子どもを連れてわずかに外出したすきに元カノの車が入ってきて、短い会話を交わしてスタンドを出ていくのとほぼ入れ替わりに妻と子どもが帰ってくる。こんなにびったしのタイミングはあり得ない。いや、全編、この種の絶妙のタイミングばかりで、だからこの何年にも渡る内容濃い映画が簡潔にまとめられたのかもしれない。

子どもの名は?「フランソワーズ」。かつて、子どもが生まれたら名前をそれにしようと話し合っていた。外見的にはさりげない再会と別れだが、そこに何かが続いていたことを二人は確認する。ギイの妻が帰ってきてキスをして子どもと楽しく雪遊びをする。そう、そういう別の人生がはじまっているのだ。その引き返されることのない現実を映画は淡々と語り、終わる。

フランス映画、いいじゃない。ハリウッド製の何でも割り切ってはっきりさせる映画とは違う。抑えて、外見上何も起こっていないように見えるけど、人の心の底に、ある感情と過酷な真実が流れている。そんなことを表現したハリウッド映画はあったか。

アルジェリア戦争とベトナム戦争

終わってから、この映画の背景にアルジェリア独立戦争(1954~1962年)があるのが気になった。映画で20才のギイと17歳のジュヌヴィエーヴが恋仲になるのは1957年。ギイは1958年に徴兵される。負傷して戻ってくるのが1959年だ。その1年ちょっとの間にジュヌヴィエーヴはハンサムな宝石商と結婚してしまう(たった1年ちょっとも待てなかったのか!情けない)。英仏海峡に面した港町シェルブールには常に水兵たちの姿が行き来している。そういえば雨傘店を経営するジュヌヴィエーヴの母が、娘とともに宝石店にネックレスを売りに行くのは、高額納税通知が来たからだった。当時フランスは戦争で深刻な財政赤字にあり、税取り立てを強化したのだろう。

反戦映画ではない。アルジェリア戦争は単なる背景。男と女の関係は様々な事情で進路を狂わされる。その一つがここでは戦争だっただけ。

フランスにとってアルジェリア戦争は、アメリカにとってのベトナム戦争だったのか。ベトナム戦争の映画をたくさん見ていた。明確な反戦の映画も、戦闘場面を強調したアクションものも、そして「ディア・ハンター」(1978年)のような実際に戦争を体験した者が持つ恐怖感をこれでもかと表現する名作もあった。「シェルブールの雨傘」はそのいずれでもない。背景的歴史で変えられていく人々の人生を淡々と描いた。

いや、似たベトナム戦争映画があったぞ。題名を思い出せない。内容もほぼ忘れてしまった。ただ、迷彩服のシャツを着てサンフランシスコに帰還した若者が、通りすがりのヒッピー男にHow many children did you kill?(あんた、子どもを何人殺した?)と単刀直入に声を掛けられるシーンだけが記憶に残っている。さすが反戦の街サンフランシスコだ、鋭い言葉を発する、と感動もしたが、何も考えずまじめに義務を行い帰ってきただけの若者には荷が重い。いや、重要な場面ではない。単なる「帰還」のワン・シーン。若者は特に反応せず通り過ぎ、確か恋人の住むアパートに戻り、日常のつつましい生活が始まっていった。それだけの映画だったように思う。有名映画ではなかったらしく、ウェブを探しても見つからない。しかし、普通の若者が普通に軍務を経て、また普通の生活に戻る、それだけの物語に、ベトナム戦争の確実な一端が語られ、それなりに印象に残った。

日本の古典名画「雨月物語」「東京物語」

そして日本映画。黒澤明「羅生門」(1950年)、溝口健二「雨月物語」(1953年)、小津安二郎「東京物語」(1953年)「浮草」(1959年)他を立て続けに見た。それなりに感動した。「雨月物語」は泣かせる。男は結局何を求めるべきなのか。大切なものを思い返させてくれる。「老年は荒野を目指す」で外国に出ている私にも訴えるものがある。

「東京物語」は子どもの頃、親と一緒に見たのを思い出した。座敷の上で大人たちが会話を交わしている、という印象しかなかった。全然意味がわからなかったが、老親たちと同じ年頃になった今はよくわかる。成長した子どもたちに冷たくされても「私たちはいい方だよ」と確認しあう老親たちの言葉が印象的だ。

そう、それが家族というものだよ。むしろ、親のなどかまってる暇もなく自分たちの生活で必死になるくらいの方が親孝行だ。今、若者の半数近くがパラサイトシングルで親にからみついている時代だ。

派手なアクションもなく、淡々と日常を描きながら2010年になっても「史上最高の外国語映画100本」のうちの16位に選ばれる(英『エンパイア』誌)など高評価を得ていることに感心する。

それにしても映画で亡くなる老母の年齢が68才で、2か月後の私の年齢と同じであることに戸惑いを感じた。今の老人はもっと若くなっていると思うのだが。

女性の扱いが醜い

「羅生門」「雨月物語」などに見る女性の扱い方を嫌悪した。「羅生門」(あるいはその原作の芥川龍之介「藪の中」)では、強姦された女性にあまりに過酷なことを求めすぎている。侵されたら軽蔑されるのか。「雨月物語」でも兵隊たちの狼藉や強姦があまりに簡単に出てくる。もちろん、これらは戦国時代や平安時代の乱世を描いているが、終戦直後の日本の一般的な社会文化状況を反映しているようで肌寒い。インドでの性暴力事件が、ちょっと異次元と感じさせるのと同じような違和感を感じる。小説ならある程度ごまかせるが、映像だとごまかせない。戦争の記憶がまだ身近にあった。現在の折り目正しくなった若者たちから戦時下の日本軍の暴行を想像するのは難しいが、こうした映像からは簡単に類推できる気がして残念だ。

登場人物たちの貧しくきたない衣装、簡素な家屋とすさんだ農村といった舞台装置も、よく「はまっている」ので感心した。終戦直後の当時の社会状況から自然に生まれた舞台状況だろう。高度経済成長がはじまる以前だ。平安時代の乱世から1950年代まで、日本の一般庶民の農村は同じような光景が続いていたに違いない。NHK大河ドラマ「平清盛」で、平安時代末期の貧しい農村・都市を徹底して再現したため、視聴者から「画面が汚い」との批判が出たという。今の時代からしたら確かに汚い。しかし、これらの映画がつくられた終戦当時の社会状況から見れば、ごく普通の光景だったろう。苦情も出なかったに違いない。

宝探しのクミコ

現代の「日本映画」だと思って見たインディー系のKumiko, the Treasure Hunter(米、2014年)は不思議な映画だった。Kanopyの作品リストのかなり前の方、目立つところに置いてある。菊地凛子の凛とした白い顔が美しく、これだけで見ようとする人が多く居るのではないか。視聴者が多いので目立つところ出てくるようになる。

しかし、菊池の美しい顔が現れるのは最後の幻覚の映像の中だけ。初めからほぼ終盤まで、隠された宝への尋常ならぬ思い込み、それに向かってひたすら進む各種異常行動。暗くて怖い菊地凛子しか出てこない。映画「ファーゴ」で雪の中に隠された札束入りのカバンが本当にあると信じて、東京から米ミネソタ州に出向いてきたのだ。

前半は東京でのさえないOL生活。あまりにリアルな日本の日常の描写に驚く。あとでこれがテキサス出身のアメリカ人監督(デービッド・ゼルナー)の作品だと知ってさらに驚いた。絶対日本人のサブディレクターが居るはずだ。名乗り出たまえ。

2001年11月、米ノースダコタ州で東京出身のタカコ・コニシさんが凍死体となって発見される事件があった。失恋が原因の自殺だったのだが、直前の対応者の証言から彼女が映画「ファーゴ」で隠された宝を探しに来ていたらしいという都市伝説が広がった。その話を元にした映画だ。エキゾチックな文化から不思議な思い込みで宝探しにきていた女性。その死。単なる失恋自殺ではだれも興味を持たない。なぞに満ちた女性の物語であればこそ想像力がかきたてられ、関心が異様に高まる。結局、それに立脚した映画だったのか。アメリカ人男性の東洋女性への妄想に。

2014年11月にも、日本人女性が自殺をほのめかし、カナダ北部、オーロラの見える森に消えた事件があった。困ったことだ。雪の中に消えれば美しい死が遂げられるとでも思っているのか。それと同様に、アメリカ人男性たちの妄想も困ったものだ。そんなものに依存して映画をつくってはいけない。アメリカの市場を深く考えるのもいいが、あまりにそれにストレートに対応すると普遍的な課題に迫れなくなる。黒沢、溝口、小津らに見習おう。

北欧少数民族サーミの物語

その他たくさん名画を見てやや食傷気味になったが、その中で「サーミの血」(Sami Blood、スェーデン原語でSameblod、2016年)が強く印象に残った。北欧北辺の暗くしかし広大にひろがる山野。そこに生きる少数民族サーミ人(かつてラップ人、ラップランド人と呼ばれたトナカイ飼いの人々)。舞台は1930年代。先住民への差別が存在していたスェーデン社会で、サーミのヒロイン、エレマリャは、過去を捨て自らをスウェーデン人と偽って生きる。強い女性だ。時代が時代なら少数民族運動の先頭に立っただろう。しかし、自分を偽り主流社会で生きる道を選んだ。その若き日のエレマリャの必死の生き方が描かれている。

そして現代。恐らく80才台程度になったエレマリャは、妹の葬儀で5~60年ぶりだろう故郷に帰る。サーミの親戚たちとの交わりを拒否し、ホテルの一室に閉じこもる。明らかに心が屈折している。妹も裏切ったままになっていた。が、こっそり遺体安置所に行き遺体と対面し許しを請う。ラストは、白夜に広がるサーミの荒野。それを見つめるエレマリャ。

何十年か前、非核国際会議でサーミの人々に会ったことがある。ノヴァヤゼムリャ島でのソ連核実験の影響で、トナカイ放牧をするサーミの地が放射能汚染されていることを訴えていた。ゲルマン系の顔立ちだが、民族衣装を着て、伝統的生業を営む彼らについて私はほとんど何も知らなかった。今、この映画を見て、よくわかった気がする。差別される者が、主流社会に入って自己を隠す「同化」心性もよくあることだ。その屈折も含めてサーミの人々の世界を丁寧によく描いている。エレマリャは、決してだれかに謝る必要はない。当時、彼女にできる最も強い生き方を貫いた人だったと思う。

商業サービスも負けてはいない

1週間以上たっても風邪がなおらない。おまけにどこでくじいたか膝痛まで出てきた。走り過ぎの膝痛ではなく、体が全体的に弱って出た膝痛。歳を感じざるを得ない。ますます、映画を見続ける他ない。

図書館を通じたKanopyも、名画を中心にしてすばらしいが、商業ベースの映画ストリーミングサービスもなかなかのもの。配信サイトCrackleは、広告入りで無料のストリーミング映画を配信している。Netflix、Amazon Prime、huluなど他の大手も、最初の1カ月程度は無料というサービスがある。図書館が無料で映画配信し、デジタル時代のユニバーサル・アクセスに役割を果たしているが、商業サービスも独自の経済論理で無料のサービスを提供する。図書館もうかうかしていられない。

ハドソン川の奇跡

エンジン停止した旅客機を川に不時着させ乗客・乗員全員の命を救った実際の事故(2009年1月)をモデルにした「ハドソン川の奇跡」(Sully、米、2016年)。感動、の一語に尽きる。登場人物はだれも泣いていないのに、感動の涙がたくさん搾り取られた。単なるヒーロー物語に終わらせていない。パイロットは国家運輸安全委員会 (NTSB) から空港に引き返すことが可能だったのではないか他厳しい追及を受ける。精神的、経済的に追い詰められる姿も描く。というか、それが物語の中心となる。クリント・イーストウッド監督のドキュメンタリータッチの映画製作手法に感心した。

この映画は、Amazon Primeを通じ商業配信サービスMaxGoの無料登録で見させて頂いた。

同じくAmazon Primeを通じたStarzの無料登録で、期待していた「ディープ・インパクト」(Deep Impact、米、1998年)を見させて頂いた。小惑星が地球に衝突する話。画面でたくさんの別れが描かれ涙が流されるが、見ていてまるで涙が出ない。リアリティーがない。SFだからではない。ドラマの作り方のせいだ。主人公のヒロインも美人なのだが殺伐としてなぜか感情移入できない。最後の隕石インパクトと、米国都市が次々に破壊されていくCGだけ見れば十分ではないか。

ゴジラはブルックリンまでは来なかった

名画を鑑賞する気力・体力がだんだんなくなってきたようだ。好きなSF映画ばかり見るようになった。The Matrix(米、1999年、Crackleで視聴)、Godzilla(米、1998年、Crackleで視聴)、Europa Report(米、2013年、Netflixで視聴)などが印象的だった。SFとしての知的刺激がある。SFとしては変な言い方だが、リアリティーがある。高校生がつくったようなまともに見られないSFも多い中で秀逸だ。

ゴジラものはこれまで2回アメリカでリメークされているが、私の見たのは1作目のGodzilla(1998年)。2作目Godzilla(2014年)の方が評判がよいらしいが、この1作目もなかなか面白かった。舞台がニューヨークで、身近に感じられたこともある。(2作目の舞台はサンフランシスコ。)

ゴジラが想像を絶する怪獣であるのは間違いないが、生物に近い形で描かれている。魚雷やミサイルなどの通常兵器である程度打撃を受け、最終的には死亡する。妊娠をして卵を産む。強い繁殖力が人類への脅威となる。卵を産むため、南太平洋の核実験地域からパナマ地峡を越え、ニューヨーク沿岸までやってくる。海洋生物のミグレーションを彷彿とさせる。周囲に水域が多く、地下鉄などの地下空間も大きいニューヨークが巣作りに適していた。爬虫類で体温が低いため、熱センサーミサイルが当たらず、周囲のより高温のビルばかりが破壊される。荒唐無稽な怪獣もの映画でなく、なかなかリアリティーあるアメリカさんのゴジラだ。しかし、やはり怪獣というのは想像を絶する存在でなければならず、その辺が日本のゴジラファンには不満だったらしい。

最終的にゴジラ(親)はブルックリン橋上でこと切れた。あと一歩でブルックリンというところだった。マンハッタンは徹底的に荒らされたが、ブルックリンは無傷だったようで何よりだ。

しかし、マンハッタンというのは、いろんな映画でとにかく、ことごとく破壊されて気の毒だ。それだけ荒らしがいがあるということだろう。この映画でも、私の確認した限りで、MetLifeビル(元パンナム・ビル)、クライスラー・ビルなどの有名建築物が破壊されている。さらに超有名なエンパイアー・ステートビルやワールドトレードセンター・ビルは破壊されなかったようだ。遠慮したのか。もちろん、破壊しなくてよかった。このゴジラ映画公開の3年後にワールドトレードセンターが実際にテロで破壊されてしまう。ゴジラがこれを派手に破壊していたら、映画はお蔵入りになっていただろう。

まったく冗談事にならない。怪獣物やディザスター物でマンハッタンが気持ちよく破壊されまくるのは平和の象徴なのだ。そういう時代が続いてほしい。