世の中のためになることをしたい
「夢は実現しなかったけれど、退職して、世の中のためになることしなければと思ってね。」
ミャンマーからの中国系移民ヘンリー・リャオさんが穏やかな口調で話す。リャオさんは、40年前の1978年にアメリカに移住し、服飾系のビジネスを起こそうと夢を追ったが実現せず、現在は退職。不動産管理の仕事以外、ニューヨーク・ブルックリンで悠々自適の生活を送っている。この5月にニューヨーク地域のミャンマー系教会、地域団体が、ミャンマー・ラカイン州の難民問題人道支援のためエスニック料理フェアを開催した(下記写真参照)。その売り上げとリャオさんたちの寄付計2万ドルを6月24日、「ラカイン人道的支援、再定住、開発のための連合事業」(UEHRD、代表・アウンサンスーチー国家顧問)に寄付した。UEHRDはミャンマー政府と民間団体が協力する半官半民の人道支援組織で、昨年10月に発足。「ラカインでの人道的支援、再移住と生活再建、開発に向けた活動」を目指している。
これを目的にした取材ではなかったのだが、インタビューのわずか2日前に行われた寄付事業だった。ニューヨークのミャンマー人たちが組織した「ミャンマーのための全米人道的基金活動」(NHFM)の最初の活動だったという。リャオさんがスマホで見せてくれた全員集合の写真には彼も後ろの方に並んで笑顔を見せている(下記写真)。デモンストレーション用の大きな小切手垂れ幕がちょっとおかしいが、2万ドルはミャンマーのおカネにすれば相当な額になるだろう。
「ミャンマーのための全米人道的基金活動」(NHFM)最初の基金集めフード・フェア。ビルマ語でメニューが書いてある。Photo by May Thi Kha.
2018年6月24日、NHFMが集めた2万ドルをミャンマーの人道支援組織に寄付した。ニューヨークでの記念撮影。リャオさんも最後列中ほど左(FOODの文字の一つ目のOの下)に居る。Photo by NHFM/UEHRD.
自由の国アメリカを目指した
リャオさんは、1952年、ミャンマー中部のピュー(ヤンゴンの北約100キロ)で生まれた。父母もミャンマー生まれの中国系で、祖父母の代が中国・湖北省から移民してきたという。リャオさんは3世にあたる。中国語(北京語)も話し、漢字もある程度読めるが母語はビルマ語だという。
1978年の26歳の時、なぜアメリカに渡ってきたのか。「アメリカは自由の国だからだ。自分の可能性を自由に探っていける。夢を実現できる。どのような人生を送るか選択できる」とリャオさんは答える。ミャンマーでは当時、社会主義路線がとられ、すべてが国の所有になり、個人の働く意欲がわかない。
「ミャンマーは農業国だ。米や玉ねぎや大豆をつくるが、それも皆国有だ。国の幹部たちは仕事をしない。事務所に行くと、ふんぞり返っている。我々は自由に食糧を買えない。長い列をつくって政府からの配給を受ける。充分な量をもらえない。しかし、倉庫にはたくさん食糧がある。時にはそれを腐らせてしまうこともある。捨てる他ない。何ごとも統制ばかりだ。そして国が貧しくなる。」「社会主義は金持ちを嫌う。労働者を搾取して金持ちになったと批判する。そして、資産の国有化だ。しかし、それでは人々の生産意欲がわかない。」
父からも自由になりたかった
リャオさんはまた「私は中国の文化や哲学が嫌いだ」とも言う。何を言い出すのかと思って聞いていると、「儒教の考え方では、一番上に君子が居て、その下に位階制があり、下の者は上に従わなければならない。年齢でも1歳でも上なら下の者はそれに従わなければならない。間違っていても言うことを聞かなければならない。そんなのは嫌だ。だから私はアメリカに来た。」
ミャンマーで中国系は3%の少数派だ。しかし、家族内の強い中国風の伝統で育ったリャオさんは、親との確執もアメリカに移民する大きな動機になった。「ミャンマーの政府からも自由になりたかったが、父母からも自由になりたかった」と言う。
「あなたも日本から来たのならわかるだろう。中国でもミャンマーでも親の言うことは絶対だ。息子は親に従わなければならない。たとえ間違っていることでも聞かなければならない。私は服飾系のビジネスをやりたかったが、歯科医の父はそんなことはだめだと許してくれなかった。1960年代に鉛が人体に有害だとの研究が出るようになったので、私は台所から鉛使用の器具を取り除くよう進言したことがあった。しかし親は聞き入れず、かえって怒られた。とにかく対立ばかりだった。」
リャオさんが繰り返した言葉、「私は父からの束縛から自由になりたくてアメリカに来たんだ!」は、とても感情がこもっていた。筆者は、民主化運動弾圧でアメリカに逃れてきたのか、と思っていたが、もっと基本的なレベル、生き方の問題が大きかったようだ。
米国内ミャンマー移民16万人
アメリカのミャンマー・ビルマ系の人々は2010年国勢調査では約10万人、米国人口の0.03%だ。アジア系1700万人の中でもかなりの少数派になる。ミネアポリス都市圏、ダラス圏、ニューヨーク圏、サンフランシスコ圏などに多い。ニューヨークのミャンマー系移民は約7000人でクィーンズやブルックリンに多い。1965年のリベラルな移民法改革以後、ミャンマーからの移民も増えた。当初は、独裁政権下の中国人排斥などの影響で、中国系ミャンマー人の移民が多かったという。1988年にミャンマーで大規模な民主化運動があり、それが弾圧される中で、以後は政治亡命も増えた。1970年代に移民したリャオさんはミャンマー移民としてはかなり初期の集団に位置する。現在も移民は急増しており、2010年調査で10万人だった米国のミャンマー系人口は2015年には16万8000人に増えたと推計されている(Pew Research Center, “Burmese in the U.S. Fact Sheet” )。
夢は大きかった
「独自ブランドの服飾メーカーを立ち上げる夢があった。結局できなかったけどね。今はもう歳とってだめになってしまった。でも若い頃は、夢だけは大きかったよ。世界中の人が私のために働くような会社とか、そんなことを夢見ていた。」
そう言ってリャオさんは笑った。20年以上に渡り、手作業及びコンピュータによる服飾の型作成(パターンメーカー)の仕事に携わり、時には途上国に行って指導にもあたったという。「でも、私には教育がなかった。大学は出ていない。ミャンマーではなかなか大学教育を受けられる環境がなかったし、私の家も貧しかった。父は歯医者だったが、子どもが10人も居た。」
リャオさんは10人中2番目だったという。これだけ子どもが多いと、教育にあてる資金がない。「子どもをたくさんつくり過ぎてはだめだ」としみじみ回顧し、自分は息子と娘一人ずつだけにしたと言う。「息子は耳鼻科の医者になった。家1軒買えるくらいのカネを息子につぎ込んだよ」と笑う。
アジアの勤勉性と起業家精神
「アメリカは自由だが、税金が高い。働くとカネを取られ、働かなければ取られない。」
自由がある、夢を実現できる、選択ができる、とアメリカの長所を強調したリャオさんだが、気になる点もあるという。「フードスタンプや生活保護がもらえる。政府補助の安いアパートに住める。そして人々が働かなくなる。昔は政府の補助を受けるのは恥ずかしいという感覚があった。しかし今はない。働かずに平気で援助を受ける。アメリカが共産主義のようになってきている。このままではアメリカも貧しくなる。どこからカネが来るというのだ。政府の支援を受けて、多くの人が働かない。ミャンマーと同じようなことが起こっている。」
「じゃあ、おカネはどこから来るんだ!」と何度も息巻いたリャオさん。アジアの束縛を嫌いながらも、さすがにアジア的勤勉の精神を持って来た人だ。夢を追えるアメリカに来たが、次第に勤勉の精神がこの国からなくなっていくことに危機感を持っているようだ。
アメリカのアジア系人口は2015年にすでに2000万人(人口の約6%)に達し2065年には14%になるという。彼らがアジアから持ち込んでくる勤勉性と起業家精神がこれからのアメリカを救うか。身近なリャオさんの中にもその精神が脈々と流れているのを確認した。
別れ際に、今度こういうのがあるんだよ、と、ミャンマー系コミュニティの行事案内をスマホで見せてくれた。クィーンズ図書館アムハースト分館に新しくビルマ語書籍コーナーが開設されるという。その記念式典に市会議員、クィーンズ図書館館長、ミャンマー系地域団体が集まるとのこと。