カルタゴ無常

カルタゴの遺跡に行ってきた。チュニスから離れているので、気構えて行ったが、郊外電車で簡単に行け、半日もあれば主要部分は見て回れた。

ローマに徹底的に滅ぼされたカルタゴ。高校・世界史の授業で、最初の頃は先生も丁寧に教えるし、生徒も真面目に勉強している。そこに出てくる古代の通商国家。ハンニバルという名将が居て、象の軍隊を引き連れてアルプスを越え、かのローマを滅亡寸前にまで追い詰めた(第2次ポエニ戦争、紀元前218~202年)。しかし、第3次ポエニ戦争でカルタゴは敗れ、街が徹底的に破壊された(紀元前146年)。住民は殺されるか奴隷化され、跡地に草も生えぬよう塩まで負かれた。この悲劇の歴史は、かつて高校生だった多くの人たちの記憶のどこかに残っているはずだ。

カルタゴ付近の海岸線。マゴン地区遺跡付近。左はチュニス湾をはさんでボン岬半島の山々。
マゴン地区のカルタゴ住居跡。
カルタゴ遺跡地域にはTGM鉄道で行ける。カルタゴ市内で。

カルタゴの丸い港が残る

チュニスからマルサまでをつなぐ郊外電車、TGM鉄道で約30分(TGMは、チュニスからゴーレッテを経てマルサまで行くその頭文字を取っている)。カルタゴ・ハンニバル駅に着く。そこからすぐの海岸沿いにマゴン地区やカルタゴ港などの遺跡・遺構がある。

カルタゴの街は徹底的に破壊されたし、(その約100年後から)ローマ帝国が同じ場所に新たな街をつくったから、カルタゴ遺跡のほとんどは古代ローマのものだ。カルタゴ遺跡は残骸のようなものばかり。しかし、丸い堀のようにくりぬかれたカルタゴ港は、その形だけは留めている。

私はもしかしたら、あの時ローマに滅ぼされたカルタゴ住民の一人だったかも知れない。その最後の時の記憶が戻ってくるのではないか。1キロあまりの港遺構周囲を、そんなことを考えながら歩いた。デジャブが起こることを期待した。

残念ながら何も起こらなかった。地元の人々が穏やかに散歩していた。釣りをしている少年も居た。

丸く掘られたカルタゴ港の基本構造は残っている。
カルタゴ港遺構に釣りをする少年たちが居た。まわりは住宅街でのんびりした風情。背景の高台が「ビュルサの丘」。
カルタゴ市内の道路わきにあったモザイクづくりのカルタゴ遺跡地図。真ん中が「ビュルサの丘」の高台。右下(南東)の丸いカルタゴ港が特徴的だ。

なぜ徹底的に破壊したのか

なぜローマはあれほど徹底的にカルタゴを破壊したのか。多様な民族、人種を普遍的な帝国原理のもとに統合したローマは、一般的には寛容な秩序を地中海世界にもたらしたと言われる。しかし、カルタゴだけは別だ。徹底的につぶした。それだけ強敵だったからか。自らが存亡の危機にさらされるような強敵はカルタゴを置いて他になかった。あるいは当時のローマは成長過程にあって、後の寛容さにまだ到達できていなかったのか。

もしカルタゴが勝っていたら

もしもあの時、ハンニバルがローマを滅ぼしていたら、世界史はどう変わったろう。北アフリカ、あるいはフェニキア人の帝国がそのまま成長して地中海全域を支配した。偉大な古代帝国はローマでなくカルタゴ帝国として現れ、北のヨーロッパよりも南のマグレブ(北アフリカ)が中心となり、近代世界も地中海の南側から出現しただろうか。そんな紙一重の「歴史上のもし」を考えさせる古代の大事件。実際、この辺に着想を得た「オルタナティブ・ヒストリー」の小説、もしくはSFがいくつか書かれている(“Ancient Carthage: 7.1 Alternate History,”  Wikipedia)。

「カルタゴ」では通じない

カルタゴは英語では「カーセッジ」(Carthage)という。英語読みは多くの場合現地読みと異なるが、これはいくらなんでも違いすぎるだろう、と思っていた。しかし、「カルタゴ」と言ってもまるで通じない。「カーセッジ」の方が通じる。フランス語では同じCarthageのスペルで「キャッサージ」。アラビア語では「キルタージョン」のように聞こえる。後ほど、何と「カルタゴ」はラテン語のKarthāgōから来ている、ということを知った。

うーむ、歴史的地名だから、当時使われていたラテン語の発音を取る、ということか。いや、しかしそれはカルタゴを滅ぼしたローマの言葉だ。カルタゴ人はカルタゴ系フェニキア語を話していたはず。しかしこれは滅びた言語で、発音はよくわからないらしい(語源的には「カルタゴ」は「新しい街Qart-hadast」から来ているとのこと)。一方、かつてのカルタゴの地には今でもカルタゴ市(人口2万4000人)が存在する。チュニスと違って、高級住宅が並ぶとても環境のよい街だ。これを日本語で何と呼ぶか。現在の地名だから現地語のアラビア語で「キルタージョン市」と呼ぶべきか。それでは古代と現代の繋がりがわからなくなるな。

カルタゴではカルタゴの遺跡を見たい

ローマでは数多くの古代ローマ遺跡を見て感動していた。偉大な帝国だった。しかし、このカルタゴでローマの遺跡は見たくない。少ないカルタゴ遺跡を重点的に見たい。

しかし、待てよ、あらゆる文明は勃興して滅びる。カルタゴも巨石文明が滅んだ後に建設されたし(紀元前8世紀)、ローマによる征服(前146年)後も、5世紀にゲルマン系のバンダル族に征服され、そのバンダル王国は553年、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)に滅ぼされ、さらに683年にイスラム系のウマイヤ朝に滅ぼされた。その後(カルタゴは放棄され中心はチュニスに移ったが)、イスラム系のアッバース朝、アグラブ朝、ファーティマ朝、ズィール朝、ムワッヒド朝、ハフス朝、オスマン帝国下のフサイン朝などに次々と支配下に置かれ、1883年にフランスの植民地となった後、1956年にチュニジアが独立した。

これだけの栄枯最盛を経る中で、特定時期だけを正当な文明とし、他を無視することはできるか。

ビュルサの丘

カルタゴは「古代に滅びた国」として我々の記憶のファイルに収められている。しかし、カルタゴが建設されたのは紀元前816年で、それから前146年まで約668年間続いた。私達の近代文明はまだ300年程度しか経っていない(明治からは150年程度)。668年前というと室町時代初期になる。カルタゴの人々はその文明に始まりと終わりがあることなどに思い至っていただろうか。はるか昔からの生活がきょうも続いており、今後も続いていくだろう。そんな観念の中で人々は暮らしていたのではないだろうか。

カルタゴ一帯を見渡す高台が「ビュルサの丘」で、そこにカルタゴ遺跡がある。城塞だったらしいが、街区や住居も出土している。やはりローマ時代の遺跡がたくさんん出て、カルタゴ遺跡はその一部でしかないが、少ない中では貴重なものだ。

石の残骸にしか見えない。諸行無常、盛者必衰のことわりを感得しようとじっと見つめていたが、悲しくも凡庸な観察者には、やはり石ころの残骸のままだった。

カルタゴ遺跡(手前)。後方のより大きな石の構造はローマ遺跡。
ビュルサの丘からは、丸い堀のカルタゴ港も見える(中央、木立の陰にかすかに)。
現在のカルタゴ市は高級住宅街で、チュニスとは違って落ち着いた街並みが続く。
カルタゴ市内各地に古代ローマ遺跡が散在する。写真はオデオンの丘にある劇場跡。
ビュルサの丘近くにローマ時代のコラムが立つ。

ュルサの丘で最も目立つ建物は、カルタゴでもローマでもなく、フランスの植民地時代に建てられたカトリック教会、サン・ルイ大聖堂だ。現在では祈りの場としての役割は終わり、イベント会場に使われている。私が訪れたときはIT関係のビジネスフェアが行われていた。

カルタゴは現在、カルタゴでもローマでもフランスなく、イスラムの地となった。ビュルサの丘と肩を並べる北隣の丘(オデオンの丘)には、壮大なモスク建築が立つ(Malik ibn Anas Mosque, 2003年完成)。むろんこれは遺跡でなく現役。モスク内で1000人の礼拝が可能。チュニジアの紙幣や切手のデザインにもなっている建物だ。ラジオを通じて毎日5回ここから礼拝の呼びかけが流される。