印刷本を手にする感覚
一昨年のこと、共に90才台の父母が、以前に自分史を書いていたというのを聞きつけ、自費出版本にしてあげた。ものすごく喜ばれた。自分の書いたものが本になり、活字で刻まれる。若い頃の写真までいくつも大きく載っている。感激し、親戚一同に配りまくり、私は大変な感謝をされた。
昔は自費出版は何十万円もかかる大変な作業だったが、今は文字をWordに打ち込み、写真をスキャンして写し込めば、オンデマンド印刷屋さんが、1冊からでも数百円で小ぎれいな書籍にしてくれる。さして費用も手間もかからない。こんな簡単なことで喜ばれて申し訳ないくらいだが、親不孝者の私が、この年になって(おそらく父母にとっては最晩年になって)少しでも親孝行ができて、ちとうれしかった。
さほどに、印刷された本には威力がある。それなりの厚さをもち、物体として重量があり、ズシリとまでは行かないがポンと手にのる。その存在感がたまらない。紙の手触りがあり、中に自分の書いた文字が活字になり、写真まで載る。これを印刷本でなく、電子出版してパソコン画面やタブレット上で見せてあげても、父母はあのように感激しただろうか。
電子出版の時代に印刷本は健在だ
現在、電子出版が活発化し、活字本から電子本に移行しようとしている。確かに電子本は、遠隔アクセス、検索機能などいろいろな面で便利だが、印刷書籍が優れている面も確実にある。人々はそう簡単には印刷本を手放なさいだろう。
私自身、両方が手元にあれば、印刷本の方を読むだろう。インターネットは世界中に散らばったチラシやミニコミ誌が自宅に居ながらにして読めるという点で、印刷媒体とは異なる決定的利点がある。電子本も同じだ。毎日授業で大学に行く学生などがキャンパス内で図書館の本をすぐ借りられるというのならならともかく、本を読みたかったら遠くの図書館(専門書なら図書館本館)まで行かねばならないという環境なら、一に二もなく電子本(貸し出し)に飛びつく。
しかし、手元に印刷本があるならこっちを読む。ネットから取り出した記事も、内容濃い記事であればあるほど、スクリーンで読むより、プリントアウトして読む。電子書籍は簡単に印刷できないが、それでも画面プリントの機能を使って重要ページは印刷する。重要個所をコピーして残すような感覚だ。
やっとわかった、3D空間なのだ
電子情報、電子出版のすばらしさを口を酸っぱくして語る私が、なぜ、なお印刷物を好むのか。いろいろ考えてやっとわかった。印刷本は3D情報空間なのだ。
パソコンゲームを考えよう。狭いスクリーンの中でピコピコと敵をやっつける。これは遅れた技術だ。3D(3次元)空間ではない。2次元でもないかも知れない。本当の2次元なら広い面をどこまでも拡がっていけるはずだ。狭いスクリーンだけが世界ということで1次元に近い。これではつまらないから、3Dゲームにしていこうというのが「進歩」の方向だ。周りにあたかも本当の現実世界が広がっているかのような3Dバーチャルリアリティーをつくりだし、手を動かし、足で歩き、体全体に衝撃を感じながら遊ぶ、というのが私たちの時代のゲームが目指す「進歩」の方向だ。
印刷本はこの進歩をすでに実現している。文字情報を狭いスクリーンの中から外に解放している。実体を持った、つまり重さや奥行き、手触りをもった3D物体に文字空間を演出している。電子書籍はスクリーンの中に抽象的な形で存在するだけだが、印刷本は、この現実界に身体をもった物体として現れ、私たちはその全体を眼中に収めることができる。一つのまとまりをもった思想がそこに存在することを主張している。(電子書籍は他とどこで切れどこでつながっているのかわからないくらいで、あっちもこっちもつまみ食いして、まとめて月いくらの「サブスクリプション方式」が出てきたりする)。重すぎては困るが、持てば手ごたえがあり、ページを進めれば、白い紙面が3次元空間を弧を描いてめくれていく。何分の1くらい読んだか、あとどれくらい残っているか、厚みを手に感じることによって知れる。鉛筆で自分の筆圧と筆跡で重要個所に線を引ける、書き込める。それがどの辺だったか、不思議なもので「本の中盤あたりの右端上の方だった」などと視覚的にも記憶されているものだ。それを頼りに後で戻ってみることができる。
そして印刷本は、本箱という立体空間の中に整理され、私たちの認識もそれで整理される。ネット上で見つけた記事や論文も、私の場合プリントアウトして読み、それをテーマごとにファイルに分類する。情報があふれかえり部屋中、紙だらけになって混乱の巷となることもある。しかし、それを根気よく区分けし、ファイルに整理していく3次元的身体作業が、情報の整理プロセスとなる。
こうして印刷本・印刷物の情報は、私たちの身体に制御される存在として、スクリーンから出て3次元空間に展開するバーチャルリアリティーとなった。
かつて知は抽象世界にこもっていた
かつて知・情報は、抽象的な形で人々の脳に存在するだけだった。それを声に出し、語り合うことで音声としても確認できるようにした。音声付きパソコンゲームの段階で、まだ3次元空間ではない。しかし、やがて、文字を発明し、力を込めてそれを石に刻み、さらに紙に書く。そして紙を綴じた書にして手に取り、静かな和室の畳に座り、台の上に載せて読む。情報を3次元空間化した。身体の存在する現実世界に展開させた。
今また人類は訳あって再びスクリーン内の1・5次元の世界に舞い戻ろうとしている。やむを得ない。パソコンゲームの初期段階では、私たちはスクリーン画面内に閉じ込められる他ない。いつかは3Dゲームができるようになるだろうが、しかし、印刷本はすでに現段階でこの3D空間を体現している。そこで身体的・人間的なインターフェイスを構築し、3D情報空間がエミュレートされている。それだから、過去から伝わったこの次世代情報空間は、簡単に消え去ることがない。