ヘルシンキ記

ヘルシンキの街並み。

午前2時起床

今朝も午前2時半に起きた。
ロビーに居た夜型若者組も、しばらくすると居なくなる。
私の天下だ。ヨーグルト飲料を飲み、卵マカロニをつくって食べる。
ひげそり、朝食、歯磨き、その他朝の日程こなしを完了。
どうせ時差ぼけ。何時に起きるようにしても同じだ。

一昨日(11月16日)夜から、ヘルシンキのホステルに泊まっている。物価の高いアイルランドやフィンランドはドーミトリー式のホステルに泊まる以外ない。一泊20ドル程度だ。

意外と大部屋の方がプライバシーが保てる。小部屋だと、入った数人の内で関係が密になるが、大部屋だと、知ったるか、勝手に暮らすぞ、方式。

ホステル暮らしにはやはり慣れが必要だろう。不便ではあるが、慣れるとそれなりに便利なところもある。自分で炊事ができる。食器、なべ、フライパン、何でもそろっている。前の宿泊客が置いて行った食料品の残りもいろいろあるので、それで卵と玉ねぎのマカロニをつくった。パンはほぼ食べ放題。冷蔵庫にも残り物が「Free」で置いてあるので、コーラなどを頂く。(すべてに日付を付ける決まりで、古いのはスタッフが処分してくれる。)

1階は24時間営業スーパーになっているので便利だ。そこで古くなった30%引き「チン型食材」を買ってきてホステルでチンして食べる。ちゃんと電子レンジまであるからありがたい。

曇天のヨーロッパ

16日にダブリンからヘルシンキに移動してきた。眼下のヨーロッパはずっと厚い雲に覆われていた。下はダブリン同様、曇天だったろう。ヘルシンキも曇天だった。

ヘルシンキは、今回の旅の最北になるので、寒さを心配していたが、それほどではなかった。日本の冬程度か。摂氏一けた台。風がないのも幸いしている。ダブリンもそんな寒くなかったし、結局一番寒かったのは、NYスチュワート空港のあるハドソン川北部地方だった。去年、友人や息子夫婦たちとハイキングに行ったのを思い出していた。NY州は内陸に入ると寒い。

日の出とともに

昨日(17日)は朝、日の出とともに街歩き。ヘルシンキはそんな大都市でもない。数時間も歩くと、主な観光スポットは全部見てしまった。博物館も2つ行って、ゆっくり時間をつぶしたが、まだ午後2時。あと何をすればいいというのだ。早めに帰って寝る。北欧は日の暮れるのも早い。ホステルのロビーはにぎやかだが、ベッドのあるドーミトリー部屋はいつも静か。勝手気ままに何時でも寝付ける。真夜中になるとイビキがうるさいが。

20人以上入る大部屋になるとイビキもいろんなパターンがあって興味深い。イビキ研究にはもってこいだろう。

ダブリンに比べるとヘルシンキはだだっ広い。大きな集合住宅がたくさん並び、道路も広い。朝早く歩くと、人がいないので寂しい。ダブリンよりもっと寂しい。こんな暗い寂しいところで北欧の人たちはずっと生きてきたのか。

ソ連・ロシア型の街と言えるのか。フィンランドは19世紀前後、100年以上に渡ってロシア領だった。第二次大戦後も、西側といえどソ連との関係を重視してきた。あるいは中東欧型の街か。前にオーストリア・ウィーンに半年居た時のことを思い出す。街の雰囲気が似ている。

入国管理

ヘルシンキ空港に着いて入国管理があるのにびっくりした。しかも、係官の目が鋭い。何日居る?フィンランドの後どこに行く?執拗に質問してくる。フィンランドもアイルランドはEU圏だろうに。(アイルランドがEU国なのにシェンゲン条約に加盟してないので、入国管理上の域外になることが後でわかった。)

街に出ると、北欧白人の国に、アフリカ系、アジア系が意外と多い。これで国境管理を厳しくしているのか。地下鉄の中で黒人青年が奇声を上げ、異様な行動を取っているのを見た。だめじゃないか、君、偏見を強めるだけだ。NYの地下鉄なら珍しくないが、北欧では珍しいのだろう。乗客が困り顔で、かかわらないよう目線を避けている。母親に連れられた子どもが怖がっている。

近代史の現実

フィンランドは、第二次大戦時、日独伊とともに枢軸国に付いていたというのを初めて知った。しかし、フィンランド軍はソ連軍に大打撃を与え、ドイツ降伏前に休戦をかちとった。それで戦後もソ連圏に入らず、バルト三国や東欧諸国とは別の道を歩むことになった。やはり軍事で国の運命が決まる。冷酷な近代政治の現実。

ヘルシンキ大聖堂と元老院広場。
港近くのマーケット広場。
ロシア正教のウスペンスキー寺院。ロシアに行けばありきたりなのだろうが、西ヨーロッパから来ると異色だ。