人はなぜ起きるのか

春眠暁を覚えず

朝寝は心地よい。仕事がある訳ではない。このまま永遠の眠りについてもよいのだ。「こてえられねえ」という言葉はまさにこの感覚のためにあるのではないか、と思うほど、布団の中のまどろみが心地よい。

春眠暁を覚えず、という通り、これは当然の感覚だ。

不思議なのは、これだけ気持ちいいにもかかわらず、かつ、どうしても起きなければならいことはないにもかかわず、私はいつの間に起きていることだ。

ぐいと2段ベッドから起きてから(おい、そんな所に寝ているのかね)、ありゃ、私、今起きたぞ、何で起きたのだ? と不思議に思う。人はなぜ生きるのか。いや、人はなぜ起きるのか。

寝床かたわらでこの出来事を思弁するうち、結局、体がじっとしていられなかったのだ、という事実にたどり着く。体内のエネルギーがじわじわと上昇し、いつの間にか私は起きてしまった。

唯物論哲学

こういう時だ、私が唯物論哲学に復帰するのは。人は結局、物質的な自然(私の身体を通して現れる自然)に動かされて生きている。立派な思想や観念で動かされているのではない。私は脳内から発せられる「自由意思」で起きたように思っている。しかし、そうではない。身体の中からじわじわと湧いてくる自然のエネルギーによって駆られ、起きた。

「春眠暁を覚えず」新解釈

脱線するが、「春眠暁を覚えず」に私は持論がある。普通は、暖かくなり夜明けも気づかず快眠してしまう、という意味だと言われる。しかし、実際に起こっていることは、春になって夜明けが早くなったので、まだ寝てていい時間に起こされてしまうという事態だ。しかし、気持ちがいいので、「朝になったのもわからず寝ていたのかなあ」と思ってしまう。そういう誤認識をこの言葉は表しているのだが、その錯誤は一向に問題がない。むしろその方が味がある。

(この言葉は中国・唐代の孟浩然の詩が基となっていて、彼の詩『春暁』に「春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞く、夜来風雨の音、花落つること知る多少」とある。「春の眠りは心地よくて夜明けも知らず、鳥のさえずりが聞こえる。昨晩は嵐の吹く音がしたが、おそらく花がたくさん散ったことだろう」の意。)

「自由意思」の錯誤

味のある錯誤。それは「自由意思」にも言える。私たちが私たちの最も自由な「自由意思」に従うとき、それは実は私の身体を通してあらわれる自然の意志に従っている。つまり自然に支配されている。私を通して現れる宇宙の力を最大限自由に解き放ってやることが私の「自由意思」だ。

体を鍛えよ

だから諸君、体を鍛えよう、というのが今回のもう一つの結論だ。人間にとってのスポーツの大切さ。それは上記唯物論哲学で明らかになった。人は体が健康であれば、おのずとそこからエネルギーが沸き、いつのまにか起き出し、あれこれ挑戦してしまう。

近年の脳科学が明らかにしたように「自由意思」は幻想で、私たちは、自分の身体を通じて現れる宇宙の力に動かされ、物質的自然に支配されている。

だから諸君、いいのだ。内容豊かな人生を歩むため、きょうも、ジョッギングに出よう。若いやつらとバスケであばれよう。