私は哲学的ゾンビだ ―チャーマーズの意識理論に寄せて

私は哲学的ゾンビだ。そう言ってもチャーマーズさんは否定できないだろう。(David John Chalmers:オーストラリア生まれの現代の哲学者。心の哲学で指導的役割を果たす。日本語の訳書に、林一訳『意識する心――脳と精神の根本理論を求めて』白揚社、2001年と、太田紘史、源河亨、佐金武、佐藤亮司、前田高弘、山口尚訳『意識の諸相〔上・下〕』春秋社、2016年がある。)

ゾンビとは

ゾンビとは死体のまま蘇った人間(生物?物体?)。SFやホラー映画に登場するキャラクターだ。人間のように行動し、こちらからの働きかけには反応し、言葉を理解・話す場合もあり、外見上は人間に見える。しかし、生きていない。内部に意識をもたない。チャーマーズは、身体的にはまったく人間とかわらないながら、私たちがもつ生き生きとしたこの意識をもたない哲学思索上の存在を「哲学的ゾンビ」と表現して彼の意識論を展開した。

なぜこんなものを想定して思索する必要があるのか。彼の問題としている意識、つまり人間の本質の根幹的な属性だが、それを解明するのに必要だった。「ハードプロブラム」(難しい問題)とも言われる。「哲学的ゾンビ」は化け物ではなく、外見上はまったく人間。脳の神経学的側面も人間と同じで、あれこれの電気信号の刺激で脳が情報処理をし、人間と同じように行動できている。しかし、実は私やあなたが持つような意識を持っていない。極めて精巧につくられたロボットのようなものだろう。そういう存在があっておかしくないのに、なぜ私たちはこんな生き生きとした意識を内部に持っているのか、と問題を提起する。

人間の脳神経的側面、その電気信号の飛び方、化学物質の動き方は解明できる。つまり意識の外面的・物理的な機能はかなり解明できる。現状ではまだ十分ではないが、これは「イージープロブラム」で、将来解明可能な問題だ。しかし、そこで生まれているこの鮮烈で生々しい意識、色の感覚や音や痛みその他のクオリア(質感)を伴い、自我も感じられるこの「現象している意識」は何なのか。これが動いている外面的な物理的仕組みが解明されても、内面から見えるこれがいったい何のか、なぜこのようなものになっているのか答えが出ない。「ハードプロブラム」だ、と言うのである。

質感とセンセーションをもつ意識

まだ、何を問題にしているか不明だろうか。チャーマーズ自身の言葉で説明してもらおう。「我々が考え何かを理解するとき、脳の中では情報処理過程が進行するが、そこにまた主観的な側面も存在する。ネーゲルの言葉を使えば、意識ある生命と感じられるような何かが存在する。この主観的側面とは体験のことだ。私たちが何かを見るとき、視覚的なセンセーション(感覚)を『体験』する。例えば赤の質性を感じる。闇と光を体験する。視野の中に空間的深みを感じる。異なる部門の知覚に沿って別の体験が現れる。クラリネットの音色、防虫ナフタリン剤の臭い。身体的なセンセーションもある。身体部位からの痛み、内部から湧き出す心的イメージ、感情の質、連続した意識的思考の体験、など。」(David J. Chalmers, “Facing Up to the Problem of Consciousness, ” Journal of Consciousness Studies 2(3):pp. 200-219, 1995。以下、この論文を中心に彼の論理を追う。)

脳神経学者は、それは単に脳がつくった幻覚だよ、それがどうであれきちんと情報処理が行われていれば人間は生存できるし、科学はその物理的・生物的仕組みを明らかにすればいいのだ、と言うかもかも知れない。しかし、それはないだろう、意識は私たちにとって何よりも直接に存在し、どんな外的世界の存在より身近で明瞭なものだ。これを説明できないような科学は科学ではない、というわけだ。

外はゾンビばかりか

生物が生存のための進化の中でつくりあげ、人間において頂点に達した知能、意思、理性。これらを機能的な意識と言ってもいい。これの形成を脳科学が十全に説明したとしても、なおクオリア(質感)をもった「現象としての意識」を説明することはできない。なぜこんなものがあるのか。なくても機能するだろうに。ということで出てきたのが「哲学的ゾンビ」(または現象ゾンビ)だ。外見上は完璧に人間に見え、人間の意識をもっているように行動し、嘆き悲しみ、愛し、問い詰めれば自分もクオリアを体験していると生々しく説明さえしてくれる。だから同じ人間として疑わないでいる。しかし、実際は内部に本当の意味での意識を持っていない。これが哲学的ゾンビだ。

自分の中に意識があることは、現に体験しているので確実であり明瞭だ。その存在は疑えない。しかし、他の人間に同じような意識はあるのか。あるように見えるし、科学の授業でもあると教えられた。しかしそれは証明できない。もしかしたら自分以外のすべての人が哲学的ゾンビかも知れない。あなたの友人も愛する人もゾンビかも知れない。

いや、私は頭がおかしくなっているのではない。チャーマーズさんを初め、世界最高レベルの哲学者たちがこういうことを考え、議論しているのだ。映画『マトリクス』に似たような世界とも言える。

だから言うわけだ。私は哲学的ゾンビだと。どうだ、チャーマーズさん、それを否定できないだろう。私はあなたの著書を読み、もし会うことがあれば、握手をし、感銘を受けたなどとお世辞も言い、いかにも意識をもった人間のようにふるまうだろう。だが、実はゾンビだ。

AlphaGoも意識をもつ?

逆に、単なる物体が意識をもっていると主張してもそれを反証できないだろう。ガイア理論のように地球が一個の生命体として意識を持っていると主張できる。人類最強の棋士に勝った人工知能AlphaGoは、実は初期の意識を持ちはじめている、と主張しても、反証できない。

11次元世界と0次元世界

あるいは宇宙論を例に考えてみよう。最新物理学によると、私たちの存在する世界は実は11次元で、多数の宇宙(マルチバース)が存在するのだという。異次元世界が接触するところでビッグバンを起こしている。少なくともそれが私たちの宇宙の内部からはビッグバンに見える。戯画的な例え話にしてもらっても、よくわからない。11次元の世界など、この3次元世界の人間には理解困難だし、感覚として認識できない。複雑な数式計算の中から出てきた抽象的な解としてしかそれは存在しない。

言ってみれば、内面の意識とはそんなものだ。3次元空間からは理解できない0次元空間。3次元空間的な科学認識(脳神経学など)で外面からの認識はできる。身体的諸器官からの感覚刺激、脳内の電気パルス、それによる情報処理と、神経系を通じた全身への行動指令、などなど。しかし、それらすべてを行うことで現象している「私」の意識(クオリア的側面)は3次元空間とは別の位相にある。

意識の本質は「体験」

チャーマーズズはこの不思議な意識について次のように言う。「ときには、『現象としての意識』『クオリア』などの用語も使われる。しかし、より自然なのは『意識的な体験』もしくはより単純に『体験』として語ることだろう。」(同上)

さすが哲学者だけあって、意識の本質を「体験」(experience)にまで純化(抽象化)してくれた。その通りだろう。対象的世界のすべてがこちらから認識されるものであるのに対して、意識は私自身であり、その体験そのものなのだ。現に体験している体験そのもの(サルトル流に言えば「実存」か)であって、他のすべてと異なる次元にある。外から(つまり3次元世界から)見て科学的に解明可能だとしても、それは何より実存的な「体験」であり、そういう異次元の存在として、意識は、私たち自身の中に存在し続けている。

既存理論を批判した後に彼の出す理論は…

「これまでのほとんどの意識理論は、この現象を否定するか、何か別のもので説明するか、永遠の謎に問題を高めるかのいずれかだった」(同上)とチャ―マーズはいう。特に科学の分野から、つまり「何か別のもので」説明しようとする理論について、それらを様々なカテゴリーに分けて切れ味鋭く批判している。本質を解明するのをあきらめ、意識の様々な部分的機能のメカニズムだけを明らかにしようとする理論、現象的意識を幻覚として科学的な意味において存在しないと排除する理論、あるいは複雑系理論や量子力学など新しい観点を導入して説明しようとする理論、将来の脳神経学の諸発見を待つということで思考停止に陥る理論などなど。しかし、これらはいずれも脳を物理的側面から説明することを前提にしており、そのようなアプローチでは、クオリアをもった現象的な意識、つまり「体験」がなぜ生じているかを説明できない、としている。

確かに、身体的・物理的な方向からは、意識について、肉薄は可能としても、その現象的側面の存在そのものを説明するのは難しいかも知れない。質的な跳躍が求められるのかも知れない。しかし、チャ―マーズがここで、既存理論について「意識がなぜ生まれたかの本質を解明することにはなっていない」と批判することには違和感を感じる。現象的な意識が異なる次元の問題だとしながら、なお3次元からの説明を求めているのではないか。0次元の問題はそもそも3次元の言葉では叙述できない。

少なくとも上記1995年のチャ―マーズ論文では、既存理論を様々に切った後、シャノンらの数学的な情報理論を用いた彼自身の意識理論を提起している。意識を、より下位の物理法則から導き出す「還元主義」ではなく、情報理論とそれに付随する「体験」をそれ自身根底的な法則と認定して、そこから意識を説明しようとした仮説だという。しかし、これには、既存理論を批判してきた彼の鋭い論理がそのまま降りかかるのではないか。彼自身が、物理から説明する方法に戻っている。意識の説明にわざわざ量子理論を持ち出す(ロジャー・ペンローズなど)のに似て違和感を感じる。いや、量子理論や情報理論による意識解明も鋭意進めて欲しいし、先に意外な成果が待ち受けていることを期待しないでもないが、それはやはり物理的世界から意識を説明する方法だ。情報は確かに物体の理屈とは毛色が違うが、やはり物理的世界の数学的法則と解する以外ないであろう。その方向からの説明では意識の本質的解明にならないと、彼自身が繰り返してきた批判がそのまま当てはまる。

チャ―マーズは意識という主観的現象を問題にするが、決して心身二元論の内の「心」の方に完全に移行はしない。かといって「身」の唯物主義の方にも完全には移行しない。ある意味、中途半端、中庸の路線を取っているように見える。「心」が質的に異なると物理世界から区別した上で、なおちょっと毛色の違った外界からの説明を意図しようとしているように見受けられる。

「芸術の感動」で説明しよう

0次元の問題は、3次元の手法では解明できない。11次元の世界が数学でしか叙述できないように、0次元の世界を叙述するには科学とは別の言語が必要だ。それがまた、私の嫌いな数学にはなっては嫌だが、どちらかと言えば、文学や音楽、つまり「芸術的な感動」の言語で叙述されるのではないか。

ここで、0次元はもちろん例えだ。私たちが内部で体験しているクオリアをもった意識は、認識の主体。それに対し、外界のあらゆる存在は認識の客体だ。公転しまれにぶつかり合う岩石惑星の内面の思いは知らないが、それを外側から客観的に認識することはできる。動物も同様に客観的対象として科学で認識できるが、その内面は(想像はできるものの)体験はできない。他の人間についても同じだ。しかし、世界の中でこの「私」だけは、その内部に自分が居る。「意識」とは「私」のことで、「私」は外界とは別の存在と感じられる。これが違いだ。私たちは、内部でクオリアをもった感動的な世界を体験している。それができるのは広大な世界の中でここだけ。だからその特別な存在である意識体験を内部から説明しようとすれば、別の言語が必要になる。

繰り返すが、意識の科学的解明が不可能と言っているわけではない。科学は今後も、意識の秘密に無限に肉薄していける。しかし、最後の、世界で唯一の認識主体という立場の特殊性、その内面の体験が科学の用語で叙述できない、という問題があるとするならば、それは例えば芸術で叙述しよう、ということだ。

常識的に言うと意識は進化の産物

内面に、クオリアを伴った生々しい意識がなぜ生まれるか。それは常識的に考えれば当たり前だ。例えば情報処理の結果が「一つ、何々すべし」「二つ、何々もすべし」など言葉で書かれていたら実行しにくい。まして数式で書かれていたらお手上げだ。ニューロンの発火そのままに線香花火のようなものが見えるだけでもだめだし、パソコンのスクリーンのようなものに0と1が無限に並ぶような情報処理でもだめだ。それでは生身の生物が行動に駆られない。現実界の色や臭いや熱や痛み、それらが生々しく体験され鮮明な模式図が現れて、それに向かって動こうとする自分の感情や身体的イメージが鮮明に出現してこそ、生物は迅速・効率的な行動に駆られる。行動を起こしやすいからそういう「意識」が生まれた。そして迅速に反応し行動できる生き物ほど生存しやすく、子孫を残すことになった。それだけのことだろう。私たちは、線香花火しか浮かばない半ゾンビより優れたヒューマンインターフェイスを与えられたから、生き残ってこれた。

物質界からの説明を禁じてどんな説明が可能か

しかし、チャ―マーズ的な意識を特別とする厳しい論理性から言えば、こうした物質的世界からの「還元的」説明は認められない。では、どのような説明が可能なのか。「還元的説明」が禁じられれば、それは意識体験そのもの、その内的必然から説明される他はない。結局、アプリオリ(先験的)に存在する、と言う他ない。「神の啓示」として現れたのであり、あるいはフォイエルバッハに従い神の本質を人間性の本質と洞察すれば、人間存在の強烈な現実から立ち現れたと説明する以外ない。存在の不思議、というより、存在することの感動、「芸術的な感動」からすべてが始まったとする他ない。

確かに、私たちの意識の中に生起するこのもろもろの「クオリア」は、考えてみれば不思議だ。不思議と言えば不思議だ。しかし不思議であることの本質的な原因は、これは唯一、世界を認識する主体「私」の側にあるものだからだ。たまたまだが、私たちは、ぶつかり合う岩石の内面に存在していたのではなかった。動物の内面でもなかった。動物の内面に何かあったとしても、彼らはそれが不思議だとか、なぜ起こったのかわからないなどと問題提起をしてこない。だから学問的課題にも上ってこない。人間だけが、この「私」の内側の何かが不思議だ、不思議だと言って問題にする。これを「外界」の物理的諸要因(量子理論でも情報理論でもいい)から「還元的」に説明してもいいと思うのだが、それがだめだというなら、音楽でも芸術でも宗教でも実存主義哲学でも酒で恋もでも何でも持ち出して、人生のすばらしさ、人間の「意識」の驚異、を大いに謳歌・賞賛すればいいだけだ。

幸いにも、意識は現実的な物質世界と緊密に結びついている。いや、それは、物質的世界を生存の糧とし、そこで生きることをほとんど唯一の目的として生物、人間が獲得した形質だ。意識の出自を物質世界から説明することを禁じてなお、この奇跡の「意識」は、物質的世界との不断の交換、実践的交わり、つまり人間の生の中でうごめく他はない。その運動から生み出されるのは、自身を含めた物質界のめくるめくような驚異の開示。世界の秘密、宇宙の真実、そして自分自身の本当の姿は、ここからだけ現れている。すべてが、この意識と外界が交わるところから鮮烈に開示されている。