これを「侵略」と言わずして…:ナチスのポーランド侵攻

これを「侵略」と言わずして何を言わんや。第二次大戦の引き金となったナチスドイツのポーランド侵攻ほど「侵略」の原像を赤裸々に語ってくれるものはない。ドイツとポーランドの間には2000キロに及ぶ主に平原の国境線が横たわっていた。1939年9月1日、それをドイツは、1000台を超える戦車を先頭に突如蹂躙。ポーランドに攻め入った(以下、Wikipedia参照)。(主に双発の)爆撃機290機、急降下爆撃機290機、戦闘機1,180機がポーランド各都市を攻撃。ダンツィヒ(グダンスク)親善訪問中のドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルスタイン号も、突如ポーランド守備隊に砲撃をはじめた。当時のドイツ軍の戦車保有数は2,400両。障害のないポーランド平原をワルシャワに進み、9月28日までに首都を陥落させた。

9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まる。ポーランドにとって、長い平原国境でこの強国と隣り合わせていたことの不運は察して余りある。加えて、9月17日、独ソ不可侵条約の密約で、ソ連も東側から侵攻してポーランドを蹂躙したことも忘れてはならない。

「ワルシャワ蜂起博物館」は、この隣国から得た深い傷跡を、これでもかというほど掘り起こしてくれる。日曜日は無料入館。多くの若者が展示に群がり、過去の歴史を学んでいた。

ポーランドは、独ソ占領期にも地下の抵抗活動を続け、1944年8月1日にはワルシャワで一斉蜂起を組織した。ソ連軍がドイツ軍を追い詰め、ワルシャワ郊外に迫っていた。ドイツの支配に抗して決起するようワルシャワ市民に促してもいた。だから蜂起したのだが、蜂起しても赤軍はワルシャワに入らず、ドイツ軍による徹底した弾圧・虐殺を静観した。レジスタン戦士、ワルシャワ市民約22万人が犠牲に。ソ連は、ドイツも駆逐したいが、抵抗を続けるポーランド・レジスタンス勢力も邪魔で、それをドイツの手で抹殺させたのだと言われる(wikipedia参照)。

ワルシャワ蜂起博物館。日曜は入館無料なのでたくさん人が並んでいた。
ワルシャワ蜂起博物館内。多くの若者が展示に群がり、過去の歴史を学ぶ。
旧市街のワルシャワ王宮(右手)と王宮広場。ワルシャワの象徴となる中心広場だ。第二次大戦中のドイツの爆撃で灰燼に帰したが、戦後市民が根気よく復元。1980年に、旧市街を中心とした「ワルシャワ歴史地区」が世界遺産に登録された。ワルシャワの街は、1596年、ジグムント3世がポーランド王宮廷をクラクフからワルシャワに移転して形成された。王宮もこの時建てられている。左手の円柱塔の上にジグムント3世の像。
旧市街の裏手にある「新市街」の中心広場。「新」と言っても、ワルシャワ遷都後、17世紀につくられたやはり古い市街。共に世界遺産になっている。
17世紀設立の聖十字架教会。王宮広場から南に伸びるクラクフ郊外通り(「王の道」の一部)が古都ワルシャワの骨格を成している。この教会もそれに面して立つ。ショパンの心臓が安置されている教会としても知られる。ショパンはワルシャワ帰郷を望んでいたが、パリで客死した。後にその心臓がここに移された。
一方、本当の新市街の方では建設ラッシュが続く。
古い家屋がどんどん取り壊されているようだ。
ワルシャワ・ゲットーを囲っていた壁(中央奥)。住宅地の間に奇跡的に残っていた。ワルシャワは第二次大戦前、ヨーロッパ最大のユダヤ人集住地区で、人口の3分の1、35万人がユダヤ人だった。1939年9月にワルシャワを占領したドイツは、同10月に市内にユダヤ人隔離の「ゲットー」をつくった。レンガ3メートルと鉄条網1メートルの壁に囲まれた3.4平方キロの地域に周辺からを含めて40万人のユダヤ人が集められ、一部屋平均7.2人という劣悪な環境に置かれた。1942年にその多くが強制収容所に送られ、殺害された。ポーランド全体で300万人のユダヤ人が殺された。(Holocaust Encylopedia参照
ゲットー内にあった Bersohn and Bauman小児病院。2023年までにこれを「ワルシャワ・ゲットー博物館」にする計画で、改修が行われている。