バレンタインの日に

母は、この12月、1月を通じて徐々に弱っていったが、2月3日にとうとう「危篤」に。意識がなくなり、一時血圧が測れず、酸素マスクがないと呼吸も難しい状態。医者からは「あと1、2日かも」という言葉が出たので、私が病室に泊まり込みをはじめた。

しかし、母はそれから11日間持ちこたえた。日ごとにより危険な状態になるので、私はやや離れた家(実家)に戻るに戻れない状態に。どこにでも寝てきた世界貧乏旅行人として、絶対負けられないと腹をくくった。そして2月14日。

病棟から見える那須岳(右)、高原山系(左)。

未明に看護婦が2人病室に。心臓の波形が乱れているとの報告。これまでも夜に看護婦の訪問はあったが、モニター上の異常を察知して来るというのは初めてだ。オムツ交換その他で体を動かした後、不整脈が出るようになってはいたが、長く続いたのだという。体をさすったり、呼びかけたりすると、一応落ち着いた。

午前中は小康状態。家族の中では、これは長期戦になるという話も出ていた。余命1か月と言われて人工栄養で2年もった知り合いの知人の話も出た。何度も「いよいよ」と言われながらがんばってきた不死身の母だ。このときも、そんな急に逝くことはないと思っていた。

午後4時半頃、看護婦さんから1時間以上不整脈が続くという報告。血圧を測ったらその時は計測不能。「もしかしたらこのまま」という言葉が看護婦さんから出たので、近場の家族にメールを打つ。母の状況は逐一メールで送っていたが、病院内にWifiはなく、近くの図書館まで行かねばならないのがまどろっこしかった。

午後5時10分頃、図書館から駆け足で戻ったが、一見変わりなし。が、その後の1時間で急速に事態が悪化した。だんだん息が荒くなり、表情も険しくなる。最初は、「生きるたたかいをしているね、ばあちゃん」などと言っていたが、すぐそれどころではなくなる。

看護婦さんを呼ぶ。モニター上では危機が迫っているのを十分把握していたようだ。肩を撫で、「がんばれよ、ばあちゃん」。きょうは数時間前から薄目を開いたりしたので、調子いいのかと思って結構話しかけていた。しかし、徐々に、両目をカッと見開いてくるようになった。看護婦さんが閉じようとしても閉じない。形相からしてやばい状態に。

呼吸がいよいよ荒くなる。しかし、聞いていた「あご呼吸」というのは、亡くなる十数分前からしか出なかったと思う。開いた手から水がこぼれるように、母の命が落ちていくのを感じた。

看護婦さんから、すぐご家族の方に電話するよう言われた。それどころじゃない、死んでしまう、と思ったが、知らせなければならないのも事実。来れるのは実家の弟とその近くに住む叔母(母の妹)だけだろう。ナースステーション横の公衆電話で弟にすぐ来るように言い、叔母にも連絡するよう頼んだ。

ベッドに飛んで帰った時にはほとんど呼吸をせず、顔を引きつらせていた。かすかに口などが動いていた。必死に声をかけたが、そのうち、開いていた両目を自分の力でぎっしりと閉じた。強く深く、闇に落ちていくような眼の閉じ方だった。おそらくその時、心臓も止まったと思う。(午後6時27分)

ナースセンターにいた看護婦さんが、心拍が止まりました、と機械的に言った。病院ではこんなことはしょっちゅうあるのだろう。また、こういう段階では看護婦さんにできることなど何もないはず。悪いことに夜シフトが始まり、看護婦さんの数が少なくなったときでもあった。

母は動かなくなり、次第に顔が冷たくなっていった。しかし、病室は温かいのでそれほどまでには冷たくはならない。それから約40分、母の顔をぼう然と見つめ、肩を抱えながら、いろいろ話しかけた。看護婦さんは退いた。連絡が間に合わなかった他の家族たちには申し訳ないが、この40分、二人きりで「会話」できたことがとても貴重な時間だった。

やがて弟と叔母が来て、医師を交えての正式な死亡診断儀式が行われ、夜勤の女医さんから「2020年2月14日午後7時29分、死亡を確認しました」というような宣告が行われた。死亡診断書が作成され、葬儀社への連絡がなされ、看護婦さんたちによる身体の清めが行われた。

化粧も施され、ミイラのように痩せていた母の顔は30歳くらい若返った。午後8時半頃、葬儀社の車が病院に着き、遺体を乗せて家に。山道を行く暗い搬送車の中に横たわる母に「やっと家に帰れるよ」と言葉をかける。入院中、よく「家に帰りたい」とか「畳、畳」と言っていた。


「2月14日午後6時27分」という時間が前もってわかっていたら、より多くの家族に電話して枕元に来てもらえただろう。しかし、それは突然訪れる。地震の予知と同じで、その時が来るのはだれも、医者もわからない。後で考えれば予兆はあった、ということなのだが。

2日前、私が病院のある町周辺のサイクリングに出ている間に約10秒の心停止があった、と聞かされた。看護婦さんたちの奮闘があったが、本当によく立ち直ってくれた。また、1日前の夕方、外出から帰って裏口エレベーターから遺体が出るのに遭遇して、心臓が止まる思いをした。付き添う家族は……と瞬時に目を走らせると、うちの家族ではなかった。心の準備はできていると思っていたが、いざというときはどうなるか深刻な予行演習をさせられた。その晩、呼吸困難となり看護婦を呼んだ。タンを吸引すると収まった。0時過ぎ、不整脈が長引き、看護婦さん2人が病室に応急対応をしに来てくれた。死亡当日の朝には、おむつ替えなどで体を動かした際、一時的に不整脈が出る、との報告を受けた。そして午後3時過ぎから、持続する不整脈など一連の過程がはじまったのだ。

つまり、母は、徐々に徐々に警告信号を出し始めていた。のんきに構えていたバカ息子も、さすがにこの日は遠出はまずいと感じ、近くのWifiがある図書館にメールを出しに行くだけにしていた。

母は、私が居る時に逝った。それが最高のプレゼントだと思う。長期戦と思っていたし、こちらも体調を維持しなければならないから、しょっちゅう外に出ていた。散歩、サイクリング、図書館行き。それは決して悪いことではない。付添人・救助者などの方が返って先に倒れるケースが世の中にはたくさんある。あの日と前後して初の国内死者が出た新型コロナ・ウィルス肺炎でも、本当の初の犠牲者は、武漢からの帰国者対応で忙殺され自殺した政府担当者だった。

しかし、家族がだれも居ない間に母が逝ってしまっていたら、本当に悲しいことだった。最後の最後に立ち会えて、その心の動揺が今もおさまらないが、それがかけがえのない貴重なことだった思える。そう思えば思うほど、留守の時でなくて本当に良かった。

あの日、母は死に抗し生きるために戦っていたが、私には「死に向かって戦っている」という風にも感じられた。人にとっては死ぬことも多大な労力を伴う大仕事だ。母はそれを全力で戦って逝った。こちらはオロオロするばかりだったが、その最後の戦いに立ち会えたことが貴重だった。

後に友人から、母の亡くなった2月14日(金)は、バレンタインデーだったと聞いた。「13日の金曜日」にならないことだけを気にかけていたが、そうだったか。あれは母からの最後のプレゼントだったのだ。

参照:母看病・日誌