人(生物)はなぜ死ぬのか

進化論

進化論は単純な理論で、単純だから生物界の秩序を強力に叙述する。要するに自然選択だ。うまく生き延び、より多くの子孫を残したものが徐々に広がり支配的になる。適者が生き残り(選択され)、それのもつ変異が徐々に濃厚になって新種が生まれ進化が起こる。生物が「進化する」と自動詞(能動態)で語るが、それはあくまで例えだ。実際は、結果として残っただけ。有性生物が生殖の中で変異をつくりだし、その中でたまたま時の環境に適合したものがより多く生き残り、子孫を残し、やがて支配的になる。何も意図していない。進化しようとしたわけではない。多様な変異をつくりだしただけ。その中で残ったものが結果として広がった。その単純な物理(物事の道理)が自然界を支配している。

何が「適者」かは単純に判断できない。一時期に適者だったものが次の時期には不適者として淘汰される可能性がある。とにかく最終的な結果次第だ。汎用的な形質もある程度求められるのかも知れない。1億年以上も適者として君臨した恐竜も巨大隕石衝突の環境激変時には不適者となった。強いものが他を駆逐するわけでもない。食われても食われてもそれ以上に多数の子孫を残せば生き残り大いに繁殖する。あるいは、全員しゃかりきに働く働きアリの集団が必ずしも適応型ではなく、巣内でほとんど働かず遊んでいる一定数の「働きアリ」が居るどこかの会社のような集団の方が長く存続できるのだという。「働かない働きアリ」という労働予備軍が居た方が、非常時に重要諸任務を遂行でき、巣の存続可能性を高めるのだ(長谷川英祐『働かないアリに意義がある 』メディアファクトリー新書)。

同じような環境で同じような生を営む異種が居たとして、わずかな繁殖力の差が長期的には自然選択の恩恵に浴していく。平均10の子孫を残す種と平均9の子孫を残す種が居たとして、短期的には大差なく、時に逆転があったとしても、数百世代、数千世代を経る中でわずかな平均値の差が大差となり、一方の絶滅が起こる。あるいはそこに異種間混交があれば優勢な種に吸収されてしまう。そうやってネアンデルタール人やデニソワ人は現生人類(ホモサピエンス)に吸収されたのかも知れない(例えば現生人類の中にも2%程度のネアンデルタール人のDNAが入っている)。

ヒトは類人猿と違い、授乳期間があっても出産後数カ月で再び妊娠できる。チンパンジーの出産可能間隔は約5~7年、ゴリラ約4年、オランウータン約7~9年だ。雌雄ともに常時発情できるヒトの能力も貴重だった。草原に出て捕食されやすくなったアウストラロピテクス以降のヒト属発展では「食べられても産めばいい」適応戦略が重要な役割を果たしたという(更科功『絶滅の人類史』NHK出版新書、第6章参照)。

魚類では、なわばりを持てない弱小オスが、優勢なオスの対メス放精現場にこっそり侵入してまんまと自分の精子をふりかける「スニーキング」行動がある。必ずしも「強者」でなくても、技巧を弄するものが一定程度子孫を残す。とにかくどんな形であれ子孫を残せば「自然選択」「適者生存」なのだ。人間世界でも、意外とちゃらちゃら男が……いや、不適切な例えになりそうなのでやめておこう。とにかく結果がすべてだ、ということを確認しておく。

(おそらく魚類のスニーキング行動は、必ずしも「強者」に限定されない多様な遺伝子の存続を保証しているのかも知れない。そのような多様性を確保できた集団の方が生存の可能性を高め、したがってそのような行動パターンが受け継がれた。)

もともと生物に老いはなかった

ここで問題にしたいのは「死」だ。なぜ生物は死ぬのか。長い進化の中でなぜ生物は「死」を獲得したのか。

あらゆる生物が老いて死ぬわけではない。単細胞生物は老いずに永遠に細胞分裂を繰り返し自己を再生していくし、多細胞生物でも老いず、自然死を持たない種もある。例えばベニクラゲは、若返りを繰り返し、永遠に生きることができる。ヒドラも同じだ。プラナリアは多細胞生物でありながら再生能力が尋常でなく、何百片にも切断されてもそれぞれが元のプラナリアに再生する。しかも、脳以外の細片から再生した分身に記憶が伝えられている形跡もあるという。Wikipediaの「老化」の項はこうも述べている。「よく誤解されるが、下記[老化の諸要因]は動物のしかも一部の種(具体的には脊椎動物のみであると思われる)にだけ成立する。例えば多細胞生物でも植物や菌などの細胞、あるいは動物でも海綿動物や扁形動物の体細胞ではテロメラーゼは高い活性を示し、ガン化しない通常の細胞でも「不死」である。これらの種では寿命も確認できないものが大多数を占める。」

不死という訳ではないが、日本の縄文杉は数千年生き、カリフォルニアのブリスルコーンパインでは推定4600歳のものが発見され、272歳のニシオンデンザメ、211歳のホッキョククジラ、188歳のホウシャガメ、507歳のアイスランドガイなどの記録もある。

どのようなメカニズムが働いて個体死が起こるのか。染色体末端の構造物「テロメア」が細胞分裂回数を制限するから、細胞の遺伝子障害が蓄積するから、活性酸素が細胞を傷つけるから、など老化のメカニズムが研究されている。しかし、進化論は非常に単純な原理だ。そのような自然死の細かい機作がわからなくても、論理的な思考によってある程度、死の有利さ、自然選択上のメリットを推論できる。単純に考えて、例えば、命が長く続くことによって固体内に老廃物や有害なDNA変異が溜まるので、老いて死する集団の方が自然選択上有利になる、などと考えていくことができる。

分裂で自分の分身をつくる

人間のクローンがつくれるようになったとしても、そのクローン人間は元の人間とは別人であることは容易に想像がつく。それは一卵性双生児と同じような存在だろう。遺伝子情報は同じだが別人格だ。

しかし、SF的な話になるが、一人の人間が分裂して二人の人間が生まれたとしたらどうだろう。その場合には、両方に同じ人間が受け継がれる…ように考えられなくもない。人間でこれは現実には起こらないが、細胞分裂で増殖する単細胞生物では起こる。生殖器官を通じて増殖するのでなく、体細胞自身が分裂して次の代の個体になる。彼らはそうやって次々に次世代を生み出していくが、その次世代は元の世代の分身だ。切れていない。そういう意味で不死だ。

多細胞生物では、通常、体細胞は死んで卵子や精子といった生殖細胞を通じて次世代が形成される。体細胞としての生物個体は死ぬ。しかし単細胞生物は、次々自分の分身を生み出していき、死なない。体細胞自身が次の体細胞になる。永遠に生存・増殖していく。もちろん栄養が取り込めなかったり(餓死)、捕食されたり、何らかの事故で死ぬ個体がほとんだろうが、生き延びる個体もいる。今、存在している単細胞生物はすべてそうやって生き延びた個体の末裔だ。彼らは一度も死んでいない。分裂増殖して命をつないできた。

生殖細胞は永遠だ

あるいはこうも言えよう。単細胞生物は体細胞と生殖細胞に分化していない。それ自身、体細胞であると同時に生殖細胞だ。体細胞自身が生殖を行なって次世代をつくりだす。自分自身の一部が直接、次世代個体になる。

しかし、よく考えてみれば、多細胞生物である我々自身も、生殖細胞を介して永遠の命をつないでいる。私たちの体は一つの受精卵からはじまる。そこから膨大な数の体細胞がつくられ、そのほとんどは細胞死し、かつ補充され、しかし最終的にはその個体自身が各細胞ともども老化し死滅する。だが、その中に囲われている生殖細胞(卵子、精子など)は外部の生殖細胞と結合して新たな受精卵をつくり、新たな個体を形成する。むろんそのほとんどは無駄に放出されるのだが、ごく一部が次の生命を形づくる。体細胞はすべて一代で死滅するが、生殖細胞は少なくともその一部を通じて連続している。

いや、一代限りで消滅する体細胞も、受精卵から始まっているという意味では太古の昔から続く細胞であり、少なくともその代までは永遠の命をつないできた不死の存在だ。

受精卵をつくるこの不滅細胞はやがて巨大な体細胞に成長し、その中の一部にまた生殖細胞を囲い、さらにその極めて幸運な一部が再び他の生殖細胞と結合して次世代をつくる。それが続いてきたからこそ、我々は現に今存在している。私たちは80年程度の短い生命を与えられるだけだが、その体は永遠の太古から受け継がれてきた細胞の塊であり、その中の一部である生殖細胞(の一部)がさらに永遠の未来に命をつないでいく。

進化の中で我々は次々に別の種になり、今日のような「高等生物」に発展してきたが、その中の生殖細胞は変化しながら次々に受け継がれ連続していた。「死」の起源について考察した19世紀末のドイツの生物学者、アウグスト・ヴァイスマン(1834年 – 1914年)は次のように言う。

「生命は継続している。最も低位の生物として地球上に最初に出現して以来、切れ目なく一貫して。今日生存するすべての個人は、生命の最初期・最低位の形に源を発する。」(August Weismann quoted in U. Kutschera, “From Aquatic Biology to Weismannism,” Marine Science Research & Development, Volume 4 • Issue 3, 2014)

ヴァイスマンは、体細胞は死ぬが、「生殖質」は連続するとの説を提唱した。つまり「単細胞生物と多細胞生物とを明確に区別し、死は多細胞生物が獲得した戦略と捉える。体細胞と生殖細胞が一致する単細胞生物に死はなく、不死身である。多細胞生物では、生殖細胞すなわち生殖質だけが不死身である」とした(小川 眞里子「生物学史から見た死」、『生命倫理』1993 年 3 巻 1 号 p. 69)

永遠の命のため体細胞は死ぬ

生殖細胞本体が永遠に存続していくため、複雑で巨大な体細胞がつくられた。さらにこの体細胞が、人間では意識などを生み死を恐れたりするようになったので事柄が複雑になった。しかし、私たちの本体はむしろ生殖細胞であり、それが分裂して永遠に自身を継続していけばいい。そのため一代限りの体細胞は意識を含めて奉仕させられている。

「利己的遺伝子」的な言い方になったが、これもあくまで例えだ。遺伝子に意図的な利己心があるわけではない。有性生殖で遺伝子多様性を確保した。そしたら適応進化がより迅速になり、適応個体が効果的に残りやすくなった。生殖細胞を守る巨大な体細胞をもった生物が、結果として生存可能性を高め、より多く存続した。体細胞が死んでも生殖細胞が存続すればその生物系統は存続する。不死身だ。体細胞の覆いはその都度つくって廃棄すればいい。むしろできるだけ早く廃棄して新世代に移行した方が進化上有利だ。体細胞を不死身にしてその中に古い遺伝子をいつまでも囲っていては進化が遅くなる。ほとんど進化しない。それでは結果として残れない。淘汰されてしまう。

意識など余計なものだったか。これができたために、一代で滅びるのが理にかなう体細胞が、死を怖がるようになってしまった。だが、体細胞が簡単に事故死しないためには死を回避する行動とそのための意識を持つことも必要だったから、やむを得なかったとも言える。そしてこれがさらに対抗策(科学文明)を研ぎ澄まし不老不死を目指したりしている。大変な事態になったものだ。

生物は進化の中で死を獲得した

ヴァイスマンの最大の功績は、死を生物が進化の中で獲得した適応戦略と看破したことだろう。死は生物にとって宿命ではなかった。単細胞生物にとって生命は連続しており、外部的に破壊されない限り死なない。老いの結果としての自然死はない。しかし、生物は死という戦略を選んだ。特に多細胞化し、生殖細胞を分化し、有性生殖を開始するに及んでその戦略を明確にした。

ヴァイスマンの思索を紹介した小川は、次のようにまとめる。

「生命が、死とは無縁の老化しない個体の永久的な存続によって維持されるのではなく、新しい個体の誕生と古い個体の死によって維持されてきた理由は、死を進化論の中でとらえることによって初めて理解されるものである。変化する環境にすみやかに適応していくためには、生物は絶えず新たに異なる個体を自然界に送り出す必要があったのだ。個体の死と表裏をなす有性生殖の獲得は、形質の多様性に寄与し、多様性こそが進化を保証してきた。死は生命進化の歴史的所産であり、生命に起源があるように、死にも起源があるのだ。地上に生命が誕生した後、かなりの時を経て生命は自らの死を誕生させたのだろう。」(「進化論と く生・死の起源>」三重大学人文学部哲学・ 思想学系,教育学部哲学・倫 理学教室『論集j 第七号、1992年、p.121 。小川「ヴァイスマンの死の解釈をめぐって」「生物学史から見た死」も参照のこと。)

『種の起源』で進化論を確立したダーウィンは19世紀生物学史に燦然と輝くが、その進化論の枠組みから「死の起源」を明らかにしたヴァイスマンはほとんど忘れ去られている。現在、彼にみられるような理論は、多くの生物学者の共通認識になっていると思われるが、その源流として彼が言及されるされることは少ない。この中にあって、日本でヴァイスマンの思索を正当に紹介したのは小川真理子だけだったように思われる。

「利己的な遺伝子」なのにその100%存続を望まない

死は、適応戦略上、なぜ有利だったのか。子孫に必要資源を譲るため前の世代は死ぬ必要があったと理由づけされることがある。進化生物学者のスーザン・サデディンは「利己的遺伝子」の立場から、この理屈を一刀両断にしていて面白い。

「親の各遺伝子は、子の中に50%の確率で現れる。しかし、親の中には100%の確率で現れている。すでにそこにあるのだから。したがって、子が取って代われるよう親が死ぬというのは決して進化的に有利にはならない。」

そりゃあそうだ。限られた資源の中で自分の遺伝子をより多く残したいなら、半分しか伝わらない子に将来を託すより、自分自身が永遠に生きて100%残した方が圧倒的に良い。なのになぜ「利己的」なはずの遺伝子はこの方法を取らないのか。

一時的には不利になっても、長期的には有利なのでそうしているのだろう。遺伝子は、自分を100%残すよりも、半分にして子に託した方が(変異と生殖と適応進化を通じて優勢になり)最終的には自分自身をより多く残せる。「長期的利益」を見越した利己的選択が行われたのだ。つまり逆に言うと、この長期的に利益になる事情こそが決定的要因だった。これがなければ生物は、自分が死んで子に託すようなばかな選択はしない。(これも、もちろん進化論的に正しく表現すれば、短期的利益よりも長期的利益を高めた形質が、とりもなおさず長期的な結果としてより多く残ったのだがから、そういう形質が道理として支配的になっただけ。)

老廃物や有害な遺伝子変異が蓄積するのを防ぐため?

同様に、老廃物がたまったり有害遺伝子変異が蓄積するから老化する、などの解釈も排される。老化の過程がそういう形で現れるということであって、それが老化の出現理由だったのではない。生物は、適応上必要ならどのような形質でも生み出す。とりわけ老廃物排出や組織再生などは生物進化の得意とするところだ。実際、前述の通り、老廃物を排出し、組織再生して生き延びる多細胞生物が紛れもなく存在している。生物が老化して死ぬとしたら、あくまで、老化しないことの不利益が大きかったからだ。老化して死ぬことの進化的メリットが大きかったから、老廃物蓄積、変異蓄積をそのままにして老化させる形質を獲得してきたのだ。

生殖後は無駄な余生?

子孫をつくれば、その後、親世代が長生きする必要はない、とも言われる。余生は余計な人生であって、そんな無駄をつくる形質は進化で淘汰される、と。だが、それは老いを前提にした論理だ。老いず、永遠に次世代を生み出す能力を維持する不死を獲得すればよい。さすれば親世代の長寿も意味が出てくるし、そうした形質が次世代に伝えられる。それでなくても生物は自然界で多くの危険に接している。自分から消滅するなどもっての他。できるだけ多くの個体が長く生き延び、継続して増殖していく戦略こそ適応進化のはずだ。

ヒトで、生殖後の余命が長くなっていることには、孫世代を面倒見られる労力が必要だった(「おばあさん仮説」)、長年の経験と知識を保持できる「長老」の存在が有利に働いた、などの仮説がある。ならば、こうした成人の長寿・不死は進化上益々有利になるだろう。が、これらは生物史の最近に現れた事情であって、死が出現する頃の時代には存在しない条件だった。(つまり、原始生物では、子育てに大変な労力がかかることもないし、豊かな知識をもった長老が役立つこともなかった。)

老いて死んで遺伝子多様性を確保

結局、死の進化的有用性は、遺伝的多様性確保という一点に絞られる。古い個体にいつまでも生きていられては多様性が狭まる。若さを保持し生殖も継続すれば、その有性生殖で一定の遺伝子多様性が生まれるが、古い個体がいつまでも存続するのでは古いDNAによる生殖がずっと続くことになる。多様性発現は限定され、適応上不利になる。変異が少なければ、進化の可能性もそれに比例して限界づけられる。

ここでも繰り返すが、むろん生物は遺伝的多様性をつくろうと意図して自然死を導入したのではない。たまたま自然死(老化)が現れた種の中にこそ遺伝的多様性が拡大し、急速に変貌する環境に豊かな変異で対応できるようになった。より迅速な適応進化で、結果的により多くの個体が存続した。だからその形質が優勢になり残った、進化した、ということだ。

特に環境激変時に、この形質は重要だ。大量絶滅が起こっても、多様な遺伝子をもった個体がそれにも勝って膨大に生まれてくれば、そのどこかで奇跡的に適応的な形質が出現しているかも知れない。そしてどこかに生まれていれば、それが自然選択で急速に拡大していく。

単細胞生物が分裂で増殖するのは簡単だし迅速だ。しかし、遺伝的多様性は生まれない。一部での突然変異以外は親の形質がそのまま子孫に伝達される。その限界を越えて生物は有性生殖という複雑で難しい増殖方法を敢えて始めた(それをさらに複雑化した人間界の生殖に至る過程の困難さを見よ)。それほどまでに遺伝的変異の確保は重要だった。それがあってこそ多様な形質が生まれ、環境への適応実験が多様に行われ、適応形質が自然選択される回路が有効に働いた。遺伝的多様性を確保する上で、死が強力な適応解となった。

30歳のまま年をとらなくなったら

現在の日本で30歳の死亡率は1000人につき0.71人だという。つまり30歳の人は、今後1年間で0.071%が病気や事故で死ぬ。翌年も99.929%の人が生き残っているということだから、なかなかの生存率ではある。もし我々が不老不死となり、この30歳の若さ(したがってその死亡率)を永遠に維持できることになったらどうなるか。数学が不得意な私の計算を信じるなら、100年後で93%、200年後で87%、500年後でも70%の同世代人が生き延びていることになる。なかなか楽しい予測だ。しかし、1000年後には49%、5000年後には2.9%、1万年後には0.08%しか生きていない計算になるから、やはり「永遠の命」とは言えないだろう。

だが、事故・病気による死亡率を限りなくゼロに近づければ、自然死のない人々の寿命は限りなく長くなるだろう。あなたはどうか。永遠に生きたいと思うか。

人間はこれまでも神をも恐れない自然改変を多く行ってきた。現在の科学的知見の発展を考慮すると、人類が老いと自然死を克服する日が来ることも考えられなくはない。安楽死などに比べて、望む人に不老化施術を行うことは倫理的な問題も少ないだろう。

(例えば最近のニュースでいうと、今年5月、京都大学iPS細胞研究所長の山中伸弥教授らが、2023年から、iPSでの「若返り」研究に注力するとの発表があった。また、苛烈な技術革新と巨万の富が渦巻くシリコンバレーでは、不死を目指す精力的な研究プロジェクトが始まっていると、今年9月4日のMIT Technology Review誌が伝えている。アマゾン創始者にして世界首位富者ジェフ・ベゾスも出資する「反老化」企業Altos Labsが、高給で世界中から優秀な研究者を集めている。無給だが、日本の山中教授もその科学諮問委員会の議長を務めているという。シリコンバレーでは、グーグルが出資する長寿研究会社Calico Labsが2013年から鋭意研究を続けている。不老長寿など夢のような話だ。しかし、あらゆる夢を可能にしてきたバレーのアントレたちがこの課題にタックルするというのでは、それも実現可能かも、と思えてしまう。)

10万年生きたい

私はどうか。200年、500年はもちろん、可能なら10万年生きたい。10万年たって人類がどう進化しているか、どう退化するか、どう絶滅するか見届けたい、という気分だ。

私たちは老いと死のない世界を知らない。想像できない。あらゆる人々が、事故死・病死がない限り永遠に生き、永遠に若く、子も生み続ける。進化は遅くなるが、それでも新しい世代は生まれてくる。旧態依然のままで旧態依然の子孫を生み続ける旧世代と新世代の間で対立が起こるか。あるいは永遠に若返る人々は次々に新しい挑戦をし、必要な教育を求め、繰り返し環境に適応していくのか。自らは滅びバトンを子につなぐという生命の原理を失った時、親子の愛や家族関係はどうなるのか。締め切りがあるので何とか凡仕事をこなす私のような人間は、人生の締め切りがなくなったらどうなるのか。

死は、環境変化に対応する生物が生み出した適応解だ。これを失えば、人間も進化を止め、淘汰される危機に直面するだろう。それでもいい、と考えるか。人類はもう充分進化してきた? 地球環境のためにもそろそろ滅びてもいい? しかし、それこそ現存する人間の不死への利己的欲望であって、将来の世代を犠牲にする大罪と言えるのか。