キオス島、イズミールのギリシャ人虐殺

下記の絵。有名な絵画なので皆、必ずどこかで見ているだろう。ウジェーヌ・ドラクロワ( 1798~1863年)が描いた『民衆を導く自由の女神』だ。フランスの七月革命(1830年)をモチーフにした作品という

このドラクロワが、もう一つ、下の下の絵も描いている。こちらはあまり見たことがないだろうが、オスマン帝国によるキオス島でのギリシャ人虐殺(1821年)を描いた絵だ。題名は『キオス島の虐殺』(1824年作)。ちょっとグロ的だ。この種の絵画というのは結構あるが、私は好きではなく、芸術と言いたくない。当時もいろいろ批判があったようだ。

しかし、19世紀前半では写真もなく、文字だけの報道では伝えきれないものを補った面はあった。その効果もあり、ヨーロッパでギリシア独立を支援する世論が強まった。

フランスの画家ドラクロワが描いた『民衆を導く自由の女神』。Eugène Delacroix, Public Domain, Wikimedia Commons
そのドラクロワが描いた問題作『キオス島の虐殺』(1824年作)。Eugène Delacroix, Public Domain, Wikimedia Commons

キオス島のギリシャ人虐殺

イスタンブールからアテネへの帰り道、後述するギリシャ人虐殺の地イズミールに寄り、そこから船でアテネに向かうルートをとった。イズミール以外は通過地点のつもりだったが、船の乗り換えで立ち寄ったキオス島が、これまた別のギリシャ人虐殺の地だった。

キオス島のギリシャ人は2000年以上に渡り、エーゲ海、黒海など地中海を広く対象に交易活動を行ない、オスマン帝国下でも比較的自由な活動を許されていた。1821年にギリシャ本土で独立の戦いが勃発したときも、トルコ本土が目が前にある位置関係からも、キオス島住民は戦いへの参加を躊躇していた。

しかし、1821年3月、数百人のギリシャ部隊が島に上陸し、オスマンの守備隊を駆逐した。すぐ反撃にやってきた約3万のオスマン軍は、それ以後、4カ月に渡って島を蹂躙した。推定10万~12万の島民のうち、2万5000人が殺害され、 4万5000人が奴隷にされ、1万~2万人が難民になったとされる

ドラクロワの絵画の影響もあり、ヨーロッパ諸国でのオスマン非難の世論が高まり、仏英がギリシア独立勢力の支援を開始。1832年までにはギリシア独立が達成される。

キオス島はトルコ本土から10キロ程度しか離れていない。イズミール近郊チェシュメから見たキオス島。キオス海峡の向こう横たわる山影がキオス島だ。
キオス島は、ギリシャで5番目に大きい島。人口5万、面積842平方キロで佐渡島くらいの大きさだ。大型船の入れる港があり、他のエーゲ海の島々、ギリシャ本土と結ばれている。
キオス島の住民は村に高い城壁を築き、その中で暮らしてきた。
今でも城壁村が残り、城壁の中に人々の暮らしがある。

至る所に血なまぐさい虐殺の歴史

バルカンと東欧をめぐり歴史を学ぶと、どこでも民族間の血なまぐさい虐殺の話が出てきて、憂鬱な気持ちになる。(別に東欧に限ったことはないのだが。)

トルコに関しては、20世紀初めのアルメニア人虐殺がよく知られる。ユダヤ人と同様、世界中に散らばりながら独自の宗教など固有文化を維持してきたアルメニア人は、第一次大戦中の1915年から1923年頃まで、民族的一体化を目指すオスマン帝国、そしてトルコ近代化の革命勢力により虐殺の対象になった。数十万から、現アルメニア政府の主張では150万以上のアルメニア人が殺害され、「20世紀最初の大量虐殺」が起こったとされる。

そして今も深刻な「国家を持たない最大の民族」クルド人への抑圧の問題がある。過去に多くの虐殺が繰り返され、例えば、1937~38年のデルスィム反乱では、政府側の公式報告でも13,160人の民間人がトルコ軍に殺害され、11,818人が難民となった。2011年11月にエルドアン首相(当時)がこれへの謝罪の言葉を述べている。現在でも、クルド系テロの問題がある一方、「クルド人の虐殺が毎日起きている」と言われる。

トルコ(アナトリア)は太古から多様な人々の住む土地で、むしろトルコ人の方が新参者だった。11世紀のセルジューク朝成立の頃から、テュルク系民族のアナトリア流入が始まる。この地に古くから居た諸民族との混血を経て、元来モンゴロイドであったトュルク系が徐々にほぼコーカソイド化した。オスマン帝国の成立で、さらにアナトリアのトュルク化が強まる一方、イスタンブールからバルカンにかけてのオスマン・エリート層にはあまりトルコ人という意識はなく、特に皇室はブルガリア系、アルバニア系、ルーマニア系、イタリア系、ウクライナ系など周辺諸民族との結婚が多かった。

こうしたところに、18,9世紀から西欧的民族主義の影響が入り、特に1922年のトルコ共和国がトルコ人としての民族国家づくりをはじめるに至って、トルコ民族が成立した(トルコ人としての覚醒がはじまった)。民族主義が強調されだし、もともとこの地に居たアルメニア人、クルド人、ギリシャ人などを排斥・同化する動きが強まる。

古代ギリシャはアナトリアに植民都市を築いた

ギリシャ人の場合は数千年前の古代ギリシャの時代から地中海全域で活発に植民活動を行い、エーゲ海からアナトリア、黒海地域にも多くの植民都市がつくっていた。多くのギリシャ人がアナトリア(現トルコの地域)西部に住み、例えば古代ギリシャ神話の原型とされる叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』をつくったホメロスは、今回私が訪れたイズミール(当時のスミュリナ)かキオス島出身だったとされ、主にアナトリア西部で詩作・吟遊活動をしていた。哲学の祖アナクシマンドロスやタレス、自然哲学のヘラクレイトスやピタゴラス、歴史学の祖ヘロドトスなどもアナトリア出身だ。ヘロドトスの主著『歴史』はアナトリア方言で記述されているという。

古代ギリシャ時代のイオニア(現在のトルコ西部)の吟遊詩人ホメロス。Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.5

アテネが植民都市だった可能性は?

ギリシャの都市国家が外に植民都市をつくったと言われるが、私は、ギリシャの諸都市こそ、そのように他からの人が来てつくった植民都市ではなかったのか、という疑念をもっている。例えばアテネ人の祖先はイオニア方言を話すイオニア人とされているし、オリエント世界ではギリシャ人のことをイオニア人と呼んでいたし、実際の文化的達成を見てもイオニア地方(アナトリア西部)は単なる植民都市のレベルを超える完成度を示している。イズミール北部の古スミュルナ遺跡(Tepekule- Bayraklı)では紀元前850年頃からの城壁が出土し、都市国家が形成されていた可能性が指摘されている。トルコ本土から1キロしか離れていないサモス島(ピタゴラスの出身地)はギリシャ神話の最高女神(最高神ゼウスの妻)ヘラの出身地とされ、そこの紀元前5世紀後半造営のヘラ神殿は紀元前4世紀後半造営のアテネのパルテノン神殿の4倍の規模だったという。その前の紀元前6世紀前半造営のヘラ神殿は、古代ギリシャ・ローマ建築に普遍的なコロネード(列柱)が史上最初に取り入れた建築として知られる。

古代ギリシャ文明を研究する西欧の歴史学者にとっては、ヨーロッパ文明の栄光の起源地がまさかアジア側のトルコにあるはずはない、あってはまずい、という思い込みはなかったか。

以上を極端な論として排するにしても、少なくともイオニア地方は植民地本国に匹敵する繁栄をしていたわけで、ギリシャ人がアナトリアにどれだけ根付いていたかを示している。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)時代のアナトリアも、途中からギリシャ語が公用語になるなど、ギリシャ人が重要な役割を果たし、オスマン帝国も異教には比較的寛容で、特に正教会は、独自の教会制度も含めて信仰が許されていた。

イズミール(かつてのスミュルナ)に残るアゴラ。紀元前4世紀にこの地のギリシャ人によってつくられたが、178年の大地震で崩壊。そのすぐ後に、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの命により再建された。3階建ての市場。ビザンツ、オスマン時代に墓地だったため、イオニア地方のアゴラとしてはよく保存されている。
同上。このアゴラ遺跡は紀元前4世紀以降のものだが、前述の通り、別のTepekule- Bayraklı遺跡の方で、さらに古い城壁都市の痕跡が出土している。
イズミール考古学博物館には古代ギリシャの文物がたくさん展示されている。

第一次大戦前後のギリシャ人虐殺、追放

しかし、今日、トルコ領内にギリシャ人はほとんど居ない。第一次大戦、トルコ革命前後、1914年から1923年にかけてのギリシャ人虐殺、追放が大きな影響を与えている。

東部でアルメニア人の虐殺が起こった頃、オスマン帝国の民族浄化策はギリシャ人に対しても向けられていった。多くの虐殺、強制退去事件が報告されている。第一次世界大戦後の1919年5月には、ギリシャ軍がアナトリアに侵攻し、希土戦争が勃発。これに対し、ケマル・アタチュルクに率いられた国民軍が果敢に反撃し、1922年にイズミールを奪還、ギリシアを撃退した。アタチュルクはこの戦勝で国民的英雄となり、トルコにとっても独立と共和国設立に向けた輝かしい一歩となったが、このときギリシャ系への憎悪から報復が起こった。ギリシャ系住民約3万人が虐殺され、他の多くがギリシャ本土に避難を余儀なくされた。1923年には、ギリシャのトルコ人とトルコのギリシャ人の住民交換が行われ、トルコからギリシャに約122万のギリシャ正教徒、ギリシャからトルコに約35万~40万のイスラム教徒が移住させられた。犠牲者の数には諸説あるが、数十万のギリシャ人がこの期間に死亡し、ギリシャにたどり着いた難民の数は、それまでのギリシア人口の4分の1以上に達したともされる。この問題の資料をウェブ上で収集・提供するプロジェクト「ギリシャ人大量虐殺資料センター」(Greek Genocide Resource Center)によると、オスマン時代の1914年に、ギリシャ人の内陸への強制移住がはじまり、ケマル・アタチュルクの軍隊がイズミールを陥落させ大量虐殺や国外追放を行なうまでの期間に「虐殺、国外退去、死の行進、即時退去、ボイコット、強姦、イスラムへの強制改宗、労働部隊への徴用、恣意的処刑、キリスト教正教の文化的歴史的宗教的モニュメントの破壊」があり、「ギリシャ人大量虐殺の犠牲者は、100万~150万人とみられる」としている。

大ギリシャ主義も問題

しかし、ギリシャ側にも問題はなかったとは言えない。どの民族も自分たちの国を拡大しようと張り合っていた時代だ。歴史的にギリシャ人の居住地域だったというのは同情できるが、武力でトルコに侵攻し、領土を拡大するというのは頂けない。

1830年のギリシャ独立以降、ギリシャでは、ビザンチン帝国領を中心に歴史的にギリシャ人の多い地域を併合していこうとする「大ギリシャ主義」(メガリ・イデア)の思潮が高まっていた。例えば第一次大戦の講和会議(1919年パリ会議)でギリシャが要求した領土は下記のようなものだ。トルコ(アナトリア)のかなりの部分、ブルガリア南部なども含まれている。

第一次大戦の講和会議でギリシャが主張したギリシャ領の拡大(横線部分はフランスの主張と競合する地域)。Image: Wikimedia Commons, public domain

実際にトルコに侵攻した

そして会議でこれが認められないと、実際にオスマン帝国領のイズミール(当時のスミルナ)に武力侵攻したの(ギリシャ・トルコ戦争、1919~1922年)。一時はアンカラ近くまで攻め入っている。トルコ国民が怒るのも無理はない。ムスタファ・ケマル率いるトルコ国民軍がこれを撃退し、イズミールも奪還した。大ギリシャ主義の夢は幻に終わったのだが、こうした混乱の中でギリシャ人虐殺が起こった。