死と隣り合わせで生きる

サイクリング途上のある時、死と隣り合わせで生きている、と思った。2メートル左に寄っていれば、後ろからの車にはねられている(アメリカは車右側通行)。日本でも同じだ。快速電車が通過するとき、ホームからちょっと身を乗り出していたら命がない。

生物とは死ぬ存在、死ぬということがある存在が生物

生きることが死のすぐ隣にある。あるいは、死がすぐ隣にあるから私たちは生きている。生きるとは、死を免れる必死の努力。死なないためもがくことが生。

人生最末期の人々を見てきた。生命を維持するだけが最大の大仕事になっている。機器につながれ、極細になった生命を何とかきょう、そしてもしかしたあしたまで、つなぐ。特殊な状況に陥った人々、ではない。すべての人が同じだ。死を意識しない若い人も含め、すべての人々が死と隣り合わせ、それに抗しながら生きてきた。あまりにもそれが根底であるがゆえに気づかなくなっている。呼吸したり危険を避けたり。日々のありふれた飲み食いや睡眠…これらを何日か断絶したら命はない。カーテンを開けて天気がいいので外を散歩しよう。日常習慣として朝起きたら歯磨きをする。それを断絶してもすぐには結果は出ないが、やはり、何十日、何百日たって存在の真実に向き合わされる。

死への抵抗としての生。死への連綿たる反証としての生。死がなければ生もない。生あるものに死が存在する。生きていなければ死なないし、死ななければ生きていない。言葉遊びのようで、これは言葉遊びではない。

サイクリングの途中でその考えに打たれ、しかし深く考え始めたら、それこそ交通事故で死んでしまうので、家に帰ってからこうして考えなおした…。

私たちは、この世に生を受けてからずっと、必死に死を回避して生きてきた。身体を維持する乳や食を求め、危ないものにぶつからぬよう注意し、生きのびてきた。生が死によって簡単に滅ぼされるからこそ、私たちは意識を覚醒させ、あらゆる努力をし、痛みや苦しみをもち、うれしさや愛や幸福の感情を体験し、要するにこの世に生きるあらゆるドラマを出現させた。

死ぬからこそ生がある。車にぶつかっても高所から落ちても死なないような存在は生きていない。星が激烈に超新星爆発を起こしても飛び散ったかけらの中で同じように存在し続ける極細粒子は生きていない。生のドラマを何も体験ていない。

死ぬ存在であることによってドラマを得た我々。死によって生を得た新しい宇宙の存在形態。大きな矛盾を本質としながら、宇宙の営みの中で一時のつむじ風のように起こり、やがて消える。そのわずかな瞬間に、生の意味を考えはじめる不幸を私たちは背負った。