タンザニア、ケニア、険しいビザ障壁

タンザニア:ビザ代100ドル

ここまで旅してきた南アフリカ、ナミビア、ボツワナ、ザンビアはすべてビザ不要だった。3カ月以内の観光ならビザなしで入国できる。ところが、次に行くタンザニアはビザ取得が必要で、しかも100米ドル(1万6000円)のビザ代が取られる。これは貧乏旅行をする私にとっては想像を絶するぼったくりだ。こんな国に入りたくない、というのがまずもっての反応。

しかし、日本までの安便が出るナイロビまで行くにはどうしてタンザニアを通らなければならない。いろいろ調べて、トランジット・ビザを取る方法があることがわかった。7日以内に同国を通過するのであれば陸路でもよく、料金は30ドル。まあ、許容範囲だろう。(日本パスポートの場合、タンザニアの観光ビザ(Eビザ、アライバルビザ)は50ドルだが、米国パスポートだと100ドルになる。)

ケニア:ビザより厳しい電子渡航認証(eTA)

そのタンザニア・トランジットビザを取るには、次に入るケニアのビザを取らなければならない。調べると、ケニアは今年1月から「ビザなし国」(visa-free country)になったとの情報があった。これはよいことだ、立派だ、と思ったが、大間違いだった。ビザはなくなったが、実質的にはさらに厳しい電子渡航認証(eTA)という制度を導入した。料金も30ドルかかる。

「ケニア」の表記について:日本語では「ケニア」と表記するのが普通のようだ。しかし、原語はKenyaであってKeniaではない。だから私はこれまで「ケニヤ」と表記すべきとしてきたし、そのような表記も一般に認められているようだ。だが、日本外務省も在日ケニア大使館もウィキペディアも「ケニア」と表記している。考えてみれば、原語への忠実性を徹底すれば「ケニャ」「ケーニャ」などの方が近いのかも知れない。それなら一般的な「ケニア」に従っておいてもよいだろうという結論になった。なお、英語の場合は「キーニャ」と発音するか「ケニャ」と発音するかで議論があったりする。

要するにビザの名称を別のものに変えただけなのだ。これを「ビザを廃止した」とリベラル風に言うのは間違っているし、eTA制度導入時に、ケニア大統領が次のように語ったのは、今の私の立場から見ると許しがたい偽善と感じる。

「この特別な国の大統領として、ケニア政府の決定について歴史的な発表をするのを非常にうれしく思う。2024年1月より、ケニアはビザのない国になる。/地球上どこからの人であっても、ケニアに来るためビザを申請する重荷を背負うことはなくなる。世界へのトルカナの人々の呼びかけ「Tobong’u Lorre」(故郷にお帰り。訳注:「トルカナ湖文化祭」の現地名称)に呼応し、ケニアは人類に向け帰郷への単純なメッセージを送る。/私たちは人類すべてにとって最初のホームであり、人類を故郷に迎える祖先元来の課題を喜びをもって全うする。ケニアは人類の故郷であり、これは私たちの誇りでありかつ豊かな遺産たる科学的事実である。」

人類発祥の地

ケニア北東部、トルカナ湖周辺では、400万年前のアウストラロピテクスを含め古人類化石が多数発見されている。この地が、猿人が森から最初に草原に降りてきて人類進化の端緒地となった一つであることは紛れもない事実だ。特に有名なのは、例外的にほぼ完全な骨格が出土した「トルカナ・ボーイ」だ。150万年前~160万年前のホモ・エルガスターまたはホモ・エレクトスの少年の骨格化石。身長160センチ(成熟すれば185センチ)でほぼ完全な直立2足歩行をしていたと推定され、人類進化への重要な手がかりを提供している。

その「人類の故郷」への「帰郷」を促進するためのビザ撤廃だ、とルト・ケニア大統領は言うのだ。しかし、彼はビザの代わりにeTA制度を導入したことは触れていない。申請してみればわかるが、この(東アフリカ共同体(EAC)加盟6か国以外の)「全人類」に適用されるeTAは、やり遂げるのに大変な労力がかかる。30ドルの料金も取られる。

アライバル・ビザの方が簡単

ケニアは2021年からオンラインでEビザを取得する制度のみになっていたが(それも各種問題があったらしい)、それ以前は、他の多くの国と同様、入国時に取得するアライバル・ビザが利用できた。これは空港などで簡単な申請書を記入し料金を払えばすぐビザが下りる制度。ビザというより入場料のようなものだ。入口で料金を払ってその国に入る。あるいはこれを「空港でビザを買った」などと表現する人も居る。私は、ケニアのアライバル・ビザの実際を経験していないが、ウェブを見ると、やはり簡単に取れていたようだここには苦労談も書かれているが、50ドルの料金を米ドル・現金で払う必要があり、それが空港で入手できなくて困ったという話だ。

社会主義国並みの滞在予約情報が求められる

ところがeTAになってどうなったかというと、帰りの航空券、ケニア滞在時の旅程、宿泊先予約などの正式書類コピーを提出しなければならなくなった。顔写真はもちろんだが、これら一式の書類を「少なくとも渡航の3営業日前までに」オンラインで提出しなければならない。社会主義国などの面倒なビザ申請手続きと同じような書類が求められている。滞在ホテルまで決めなければならないようなこんな国には行きたくない、と多くの社会主義国に行くのやめている。ケニアもそうなってしまったのか、と愕然とした。

帰りの航空券まで求められるのでは、行く前に旅程が決められてしまう。とりあえず行ってから様子を見て、行きたいところに行ったり、滞在を延長したり早く切り上げたり、ということができない。自由な旅を好むバックパッカーとしては、勘弁してくれと言いたくなる官僚的手続きだ。キャンセルできる帰りの航空券を買うという手段を使っても、完全無料のキャンセルというはまずない。1~2万円のキャンセル料またはキャンセル保証料金は取られる。私の場合も実際、それくらいの出血を余儀なくされた。eTAは実質的には申請料30ドルを上回る出費を私たちに強いる。

申請システムもおかしい

その上、このeTA申請のオンラインシステムは、いろいろ問題がある。最初スマホでアクセスしたのだが(途中で顔写真自撮りがあるので普通はスマホの方がやりやすい)、いくらやっても途中で初期画面に戻されてしまい、申請できない。根をあげてもうケニアに行くのは止そうと一旦は決意したほどだ。数日して気を改め、パソコンでやってみたら、何とかうまく行った。しかし、今度は最後のクレジットカードでの支払いが通らない。別のカードでやっても同じ。私のカードがだめになったのかと日本のカード会社に連絡してあたふたするがダメ。どうも決済情報自体がカード会社に行ってないようだ。つまり申請システムの方の問題。ウェブを見ると、昨年までのEビザでも同じ支払いトラブルに見舞われた人の書き込みがたくさん出てきた。4枚のカードで試したがだめだったという人もいる

ふざけるなあ、とめちゃくちゃに何回もカード情報入力、クリックを乱打したら、なぜかそのうち通った。理由がわからない。しかし、まあ通ったのだからそれ以上詮索しなくてよい。したくもない。早く次に進みたい…。

翌日には許可が下りた

申請まで苦労したが、ケニアeTAは一旦申請すると、翌日には許可が下りた(メールで連絡が来る)。旅行日程などは、一部のホテル予約しか出していなかったが、それでも通った。いろいろ難しい書類を要求されるが、実際はあまり詮索されず許可が下りるのかも知れない。しかし、申請する方としては、万一却下されたら大変なことになるので、神経質になって書類をそろえざるを得ない。

入国手続きが容易になる?

eTAのメリットとしてケニア大使館サイトは「ケニア入国時の…入国管理審査等の待ち時間が短縮され、入国手続きが容易になります」と書いているが、これも偽善だ。申請するためにおそらく2日程度は悪戦苦闘することになるのが実態だろう(プラス・旅行に不必要な制限がかかり、無駄な出費も増える)。普通のアライバルビザなら入国時の数十分で終わるはずだ。

他のアフリカ諸国に新たな障壁

eTAが実態としてはビザの厳格化であることは、特にアフリカ諸国ついて言えることだ。これまで大部分のアフリカ諸国を含め51カ国がケニアへのビザなし渡航が認められていた。それがeTAというより煩雑な「名称が違うだけのビザ」が求められるようになり、費用30ドルも新たに払わされるようになった。アフリカ圏内での自由な人々の移動を実現しようとするルト大統領を含むアフリカ首脳の目標にまったく逆行する(例えばケニア旅行代理店BBCの記事など参照)。3日前までに申請しなければならないんでは、急に行く必要が生じても行けない。他のアフリカ諸国も相互主義原則から同じようなビザ厳格化で対抗してくる可能性もあり、そうなればケニア国民にも被害が跳ね返ってくる。

ケニア出入国管理省長官は、eTA制度導入後1週間で2万5000件の申請から計100万ドルの収入が上がり、しかもオンライン処理で未決済案件も残っていない、と喜んでいる。しかし、そんな安易な考えでいいのか。長い目ではケニアへの観光客は減るのではないか。少なくとも私は、こんな制度があるうちは二度とケニアに入る気はない。人類発祥の地の入国管理行政として他の人類にあまりに冷酷ではないか。

タンザニアEビザの問題

ケニアのeTAが許可されたので、すぐタンザニアのEビザ申請手続きに入った。100ドルという法外なビザ代(日本人を含め通常は50ドル)が取られるという問題については、特に観光に重点を置かない私としては30ドルのトランジット・ビザで済ませれば何とか回避できる、と前述した。しかし、タンザニアEビザにも、出国の航空券や、細かい旅程が求められるなどケニアeTA同様の煩雑さが指摘できる。さらにタンザニアEビザは、下りるまでに時間がかかった。公式には10営業日以前に申請するようにとの指示がある。しかし、それ以上たっても音沙汰ないことがよくあるようだ。結局入国時のアライバルビザで対応せざるを得ず、Eビザとアライバルビザの二重料金支払いになる可能性もある。結果的に一種の詐欺になるとの声もある

私の場合も、鉄道でタンザニアに入るまさにその日にトランジットビザが下り(申請からちょうど1週間目)、危く二重払いは免れたものの、冷や汗をかいた。また私の場合、鉄道でザンビアからタンザニアに入り、バスでケニア・モンバサに抜けるという陸路によるトランジット(通過)だったが、タンザニアでは鉄道もバスもオンライン予約ができず、トランジットビザ申請に困難が伴う。結局その行程予約書なしに申請したのだが、許可された(鉄道終点ダルエスサラームの宿泊、ケニア領モンバサの宿泊、ナイロビからの帰国航空便予約などの書類を提出)。

ザンビア側で鉄道に乗ってからタンザニアEビザ許可をメールで入手した。ぎりぎりで、プリントアウトする余裕もなかった。タンザニアの入国管理事務所がそれを印刷し、私が署名して提出、という手続きになった。実際には4日かけてタンザニアを通過する旅程だったが、パスポートに押されたビザ滞在期間はトランジット・ビザの最長7日間。一律にこうしているものと思われる。

「Eビザなど取るな」というアドバイス

以上、タンザニアのオンライン申請ビザも問題山積ということなのだが、ウェブを見ると、そんなEビザは取るな、直接入国しそこでアライバルビザを取ればいいんだ、というアドバイスがあふれている。例えば、これがよくまとまっている。タンザニアの場合はケニアと異なり、以前と同じアライバルビザを継続しているのが救いになっている。

途上国政府はビザで収入を得ようとする

一般にビザは、先進諸国国民に緩く、途上国国民に厳しいというのは広く知られた事情だ。日本を含め多くの先進国出身者は、ビザなしで渡航できる国が多い。しかし、途上国出身者はビザが必要になるケースが多く、ビザ代も高額になる。こういう事情を考慮すれば、相互主義の観点からも、途上国が高いビザ代を設定するは無理からぬことだ。一概に批判はできない。タンザニアの米国人100ドルの高額ビザ代も相互主義によるもので、タンザニア人が米国に行く場合は、それよりも高い185ドルの観光ビザ取得が求められる。ケニアのeTA制度も、米国が2009年に導入した電子渡航認証システム(ESTA)をモデルにしている。

そうした事情は理解するものの、かといって、はい、そうですね、喜んで高いビザ代払いますよ、とやれないところが貧乏バックパッカーのつらいところだ。さらに、ビザ代で国が儲ける以上に、観光客が減って国内経済に総体的には損失となる、という事情にも留意しなければならない。ビザなし渡航を認めることでビザ代収入以上の大きな経済効果があるとの研究は数多く出ている。

単純に考えても、100ドルのビザ代を平気で払えるような人は、入国しても民衆経済にカネを落とすことはあまりないだろう。高級ホテルに泊まり、高額なサファリ観光にカネを使い、主に大資本、時には海外資本に多くの利益をもたらすと思われる。街の屋台でトウモロコシをかじり、冷房のない安宿に泊まり、牛詰めの乗り合いミニバスで移動する、などということはしないだろう。

ビザ代で多額の収入を得る途上国政府にしても問題がある。多くの政府で汚職と放漫財政が問題になっている。ケニアでもそれで財政危機に陥り、それを増税という形で国民に押し付けようとしたため、現在、大規模な反政府デモが起こっている。この6月25日にはナイロビのデモに警官の発砲があり23人が死亡している

何としてもナイロビに行く

ケニアのeTA申請がいくら試してもうまく作動せず、面倒な予約や書類作成を含めて嫌になっていた時、もうナイロビまで北上するのはやめようと思ってしまった。また元来た道を引き返すか…と考え始めて、次の日、やっぱり初志貫徹しなければと奮い立った。「サン族首都」ツムクェ訪問という大きな課題を達成して、次の課題はつかめないでいた。しかし、何としてでもナイロビまで行く、というのは次の立派な課題ではないか。ザンビア入国スタンプの件でのトラブルもあった。アフリカは、交通手段や宿泊など旅のキツさ、不確実性以外にも、ビザや各種手続き上でも問題山積で、ぼーと構えているだけでは何もできない。ある地点まで行く、というのが目的になるというのは変だが(そこに行って何をするのかが旅の本旨のはず)、アフリカの場合はそれが偉大な旅の課題になるのだ。43年前、トラックに乗り、濁り水をヨーチン垂らして飲み、砂の上に寝ながら、南スーダンからナイロビを目指したことを思い出した。あの時も「何としてもナイロビに行く」という強い信念があったからできた。今また断固たる決意をもってナイロビをめざなければならないだろう。