社会的プロセスとしての社会科学

創発し自己組織化していく複雑系の自己認識

社会科学は、自然科学のように、何かそこにある真理を明らかにする、という静的な学問ではなく、常に前に進み新たに生成する「社会」とともに変化する動的認識だ。複雑系科学の言葉で言えば常に「創発」(emergent)していく自己組織化システムの中で、それをその時点で認識し次の方向を模索する方法だ。永遠に確定しない「真理」を追い続ける。社会が無限の可能性を秘めあらゆる方向に発展可能な存在であるがゆえに社会科学も無限に変転する。固定的な真理にとどまれない。

いや、自然科学も、ビッグバンの前と後ではまったく異なる法則が支配するなど、実は無限の発展・転生を余儀なくされる学問かもしれない。しかし、現実には、138億年+今後1400億年もの長いスパンの中で同一の法則が支配しているので、ある程度定常的な観測結果と法則化・数式化が可能になっている。時間のスパンが非常に長いだけだ。「社会」という現象は、これよりも格段に速い速度で変転する複雑系で、固定的な真理を確定するのが難しい宿命を負っている。社会とはそのような分析対象であり、社会を見る時、私たちは周辺世界のうち、急速に変転する側面を切り出している。

社会科学は、常に新たに自己組織化し創発していく複雑系(社会)の中をうごめく。典型的にはそれは政策立案の手段として具体的に社会とかかわる。現実の社会を認識し、そこで動く法則を理解し、問題を取り除いてより人間の幸福に資する社会を提案する。社会的発展の中に社会科学が具体的に生かされる。しかし、この複雑系システムは、そのような明瞭な回路だけで自分を統御しているのではない。個々人の人生観、意思、希望などのレベルにまで多様な形で社会的認識が反映され、それぞれ、個々のロールプレイヤーの動きを通じて社会全体が統御されていく。

だから社会は、そのあらゆる部面に居る人々が社会科学を行い、認識を理論化できる方途を確保することが望ましい。多様な人が認識を高めそれを交流させて系全体の方向を追求する。それが社会科学の方法でもある。社会科学の方法には、個人内部の認識プロセスだけでなく、社会的なプロセスも含まざるを得ない。つまり集合知。集合知を単に個々人が出す意見の機械的総和、総合平均値と見るのでなく、「アイデアの市場」で社会的に形成されていく知性と見る。

常に発展・変化する系の一部(人間)がその系を認識しようとするとき、系は純粋な客体として現れず、人間が対象に対して取り結ぶ諸関係を反映してしまう。量子力学で、客観的に粒子を観測することが不可能で、観測行為が粒子の状態を規定してしまう、つまり観測されないときは波だが、観測すると粒子になるという不思議な理解と通じる。数量経済学は、複雑に発展する系を、時間を止め定点に固まった粒子として観測したようなものかも知れない。波として動的に発展している系の分析ではない、と。

抽象的な存在としての社会

そもそも、社会科学が対象とする「社会」は抽象的な存在だった。決してそこに見える具体的な存在ではない。私たちの周囲にあるのは、大地、草原、木々、青空、星空、木の住宅、コンクリートの壁、アスファルト面、その上を動く金属箱(車)、そしてうごめきまわる鳥、犬、猫、人、昆虫などなどだ。

「社会」は見えないし、実体物として存在しているわけでもない。しかし、なぜか人間はそこに「社会」があると観念する。作り出された概念であることを忘れ、その存在が自明であるかのごとくに思ってしまう。それほどまでに人間にとって人間の諸関係は重要で、私たちはそこに目を奪われている。

人間が社会の存在に気づくとき、そこにはすでに一定の価値判断、意識傾向が含まれている。人は成長の中で、自分の思いのままにならない諸力が来る先に親、家族、保育所、そして社会というものが存在することに気づいていく。「社会」という言葉は、明治期に西洋語のsocietyなどから翻訳された語だが、それ以前から「世」「世間」などという言葉があった(以下、Wikipedia、Hitopedia、ブリタニカ国際大百科事典など)。「世間」はもともと仏教用語で深い意味があったらしいが、通常は、いろいろうるさく規制をかけてくる外界として観念された。西欧文化圏で最も早く社会の概念を構想したしたのはアリストテレスで、彼が「人間はポリス的動物である」としたときの「ポリス」が社会の意味に近かった(「国家」とも訳される)。ポリスは人間の自足の条件を満たすとともに善を追求する場だと観念された。

人が善を目指す場であろうと、うるさく規制して来る存在であろうと、そこに人間がのっぴきならない関係を有する存在として社会は現れ、人に認識された。何等かに対処すべき存在、可能的に行為の対象となる存在として現れた。この「社会」の出自を社会科学は引きづっている。それは具体的に視界に入る青空や木や、壁のコンクリートを分析する科学として現れたのではない。人間が取り結ぶ他の人間との関係、その関係総体(社会)にどう対処するか、どう持っていけばいいのかというある種実践的性向を基本に宿していた。実践的意識なしには「社会」自体が構想できない概念だった。それなしでは、人は永遠に壁のコンクリートを分析し続ける。

科学における「常識」

科学とは具体的なエビダンス(証拠)に基づき、論理的な推論を行って一般的な法則・理論を構築する認識方法である。実験での再現性や数式化を重視する分野もある。歴史的事実や統計を重視する分野もある。いずれにしてもそうしたエビダンスに基づき、理論化を行う。社会科学でも、現実社会や歴史上に起こった事柄の事実を確定し、アンケート調査や統計収集を行い、そしてある程度まで実験や数式化を行うが、それによって仮説が完全に証明されることはない。仮説はある程度妥当な理論として認められることはあっても多かれ少なかれ仮説であることを止めない。そして新たなエビダンスを得て、その仮説がくつがえされ次の仮説に取って変えられていく。「科学的社会主義」を標榜し、歴史の法則と経済の動きを科学的に明らかにしたという理論も、しょせん仮説だったことがわかり、むしろ歴史的な実験の中で誤りだった可能性が高くなった。

科学とは何かについて、最もよく引用される文献は、米国科学振興協会『すべてのアメリカ人のための科学』(American Association for the Advancement of Science、Science For All Americans, 1989)だろう。

この科学の規定に関するテキストの中で、「常識」(common sense)という言葉が3カ所で出てくる。1カ所はコペルニクスが当時の常識を打ち破って地動説を提起したという下り。科学はエビダンスを基礎にした理論化により時に常識を打ち破る結論を出す場合もある、ということを説明している。これは予想通りだ。しかし、他の箇所「科学は論理と想像力の融合である」という節でも、次のような形で「常識」が出てくる。

「仮説や理論の形成にはあらゆる種類の想像力や思考力が利用されるが,遅かれ早かれ,どのような科学的主張であっても論理的推論の原則に合致しなければならない。すなわち,推論,実証,常識に関する一定規準を適用することで,主張の有効性は試されなければならないのである。科学者は,しばしば特定の証拠の価値や特定の想定の妥当性について見解が異なるため,正当化すべき結論に関する見解が異なることがある。しかし,証拠と想定を結論に結びつけるための論理的推論の原則については,科学者の見解は一致する傾向にある。」

主張の正当性を示すのに「推論,実証,常識に関する一定規準」(certain criteria of inference, demonstration, and common sense)を適用しなければならないとする。「常識」も入っている。科学理論を打ち立てるには、すべて実験で証明できるものを一から積み上げるのは不可能で、何らかの常識的な判断も加えざるを得ない。それをこの箇所で詳しく論じているわけではないが、別のところ(もう1カ所「常識」という言葉が出てくる箇所)で、若者の身長が毎年5センチ伸びると言っても、20年後に100センチ伸びているわけではない、というような「常識」的な判断の例を挙げている。自然科学でもこのレベルの常識は援用するのであれば、社会科学では各人が社会の中で会得した様々な「常識」をさらに反映してしまうのは不可避だ。

(世の現実を知らない学者が難しい理論をこねて出した結論より、一般市民が常識に基づいて出した結論の方が真実を言い当てている場合もある。「常識」に関し、このような洞察が社会にあることにもここで想起しておきたい。)

「ローニン研究所」の目指すもの

大学・研究機関に所属していない在野研究者で構成する「ローニン研究所」という面白い学術団体が米国にある。「アカデミアの再構築」(Reinventing Academia)をテーマに掲げ、そのミッション(設立目的)を次のように説明する。

「ローニン研究所は学問研究の新モデルを目指し、既存アカデミア外に、学界に貢献できる優秀で教育され情熱をもった多数の人々がいることを確認する。我々は、学問研究での協力、資金援助のあり方を変えようとしている。究極的には、高いレベルの学問研究を行いたい人が皆それを行え、特に、その人生でのすべての優先順位と調和する形で研究ができることを求める。」

「ローニン」は日本語の「浪人」から取った。「封建日本の伝統的武士道では、サムライは主君に忠誠を誓い、主君を(その死や破門で)失えば切腹が求められる。しかし、ローニンは自害を拒否し自分の技能で生きることを選択したサムライだ。このアナロジーで我々の立場を示している。大学に雇用されていないと研究者ではないと思わされるが、私達にもこれができる、主君は必要でない、と主張する。」

「ローニン」たちは、大学に独占されたアカデミズムではつくれない新しい価値を創出することができるとして、その積極面をいくつか挙げている。その最初は次の通り。

「多様な人生経験を基礎にした学問が可能になる。どのような分野でもほとんどの重要な発見は、知識、情熱、創造力を結合して生まれる。学問の世界を変えるパラダイム・シフト的な洞察は、研究者が新しい観点から対象に迫った時に生じる。そして、その観点はしばしば研究者個々の人生体験から生まれて来る。残念ながら、既存アカデミアでは、組織的・キャリア的な上昇志向に秀でた者を利する傾向が高まり、多様であるべき人生体験が著しく制限される。」

こう指摘した上で、ローニンたちのその他の積極面、地域や家族の生活を踏まえた問題意識、現実問題の解決に迫る学際的なアプローチ、目先の資金獲得に囚われない長期的展望の研究、などの諸点を挙げる。

ローニン研究所は、とりあえずは「米国内に十万単位で存在する不完全雇用の博士課程修了者」を糾合しようとしているようだが、学問研究の方法として、市井の市民を含め、より社会全体の体験に基づいたアプローチを目指しているようにも受け取れる。

中間結論

社会科学は、社会という複雑系を人間自ら統御しようとする認識の手法、体系だと考えれば、これに全構成員が参加することが望ましい。全員が社会科学の訓練を受ける。互いに説得性のある議論を交わし、この複雑系を統御していく。その際に、議論の説得性を出来る限り担保するのが社会科学の科学性だ。

ミツバチの尻振りダンス

ミツバチは、良い餌場を発見すると巣に帰って尻振りダンスをしながら歩き仲間に伝える。1973年にノーベル生理医学賞を受賞したカール・フォン・フリッシュが発見し、その後も緻密な研究が積み重ねられている

良い餌場であればあるほど、このダンスは激しく長くなり、巣をそちらに移動させる集団的決定の要因ともなる。個々の情報は近似的で正確ではないが、これらダンスの積み重ねという「集合知」で正確性を確保する。その過程で、一部のハチは自らその餌場に出かけ「実地調査」して、その結果を自ら尻振りダンスで伝える。その餌場の経験のあるハチは、ないハチよりも速やかに反応する。逆に、その餌場で競争者や天敵のため危険な経験をしたハチは、尻振りダンス中のハチを頭部で小突いたり、特定の振動音を出してダンスを止めさせるともいう。

哺乳類の集団の場合は、口からの何らかの発声でこうした集団内コミュニケーションを行うようだが、ミツバチの尻振りダンスについても一種の象徴化(記号化)がなされ、人間の言語能力に近いものが認められるという。

人間もミツバチの尻振りダンスと同じことをしているのかも知れない。「今、ブロックチェーンがすごい」と言われれば、その興奮の度合い、伝達コミュニケーションの長さによって群れ全体の追随が促進されたり抑制されたりする。実際に個々人が現実を確かめにも行くし、過去の経験から危険を感じている人は、伝達者の発言を抑制したりもする。人間は、尻振りダンスや頭突きの代わりに複雑な言語を使って群れ内コミュニケーションを行い、またそれに説得性を持たせるため客観的データや論理性、つまり「科学」を用いたりするが、基本的にはミツバチ社会と同じことをしている。

簡単に考えてみよう

科学とは何か、と問われて、私たちは難しく考えすぎる。哲学的に考えすぎるか、あるいは難しい数式や巨大な実験施設をイメージして本質を見失う。簡単なことではないか。物事の道理に沿って考え、理解するということ。人を納得させる人として常識的な認識方法。まずは事実を正確に把握する。エビダンスに基づく。財布が盗まれたわけじゃない。家の中を探せばあった。単に家に忘れてきただけだった。壁に向かって歩いて行けばぶつかる。そのむこう側には行けない。ヤカンの水を一定時間コンロでわかすと、シュンシュンと沸騰する。それを湯飲みに入れて飲むと熱い。しかし10分間置いておくと冷めてくる。それらは現実世界の中の事実だ。証拠がある。何回でも繰り返せる。実験できる。再現性がある。その事実に基づいて道理の通った推論をする。あの人が財布を盗んだと疑っていたが間違いだった。壁の向こうに行くにはドア口を通って行こう。お茶は3分くらい置いてから飲めばちょうどいい、などと。

むろん、世の中これほど単純ではない。複雑な問題がたくさんある。例えば、現代社会でキレる高齢者が増えているか。いろいろ新聞記事を収集し、犯罪統計を調べ、身の周りの体験なども振り返り、説得性のあるデータを出して「増えている」「増えてない」などと主張する。「俺が高齢者だからってバカにしているのか」などとはキレず、正確なデータに基づき説得力ある論理で相手を理解に導く。納得させられる証拠提示、論理展開をする。ある意味、常識的な説得の過程だ。人として皆が認めるような方法、論理に依拠する。決して「神の力だ」「〇〇のたたりだ」「そこにモノノケが居る」などと説明回避の理屈を用いない。権力者が「それは西側資本主義の仕業だ」と強圧的に言うのをそのままの勢いで繰り返すのでもない。誰が見ても否定できないエビダンスに基づき、道理を尽くして積み上げた知識、つまり科学を用いる。

社会的合意を達成する認識方法

そう考えることで、社会にとっての科学の意味がわかる。それは社会的合意を達成する認識手法だ。万人、少なくとも多数を納得させられる事実と論理に基づいた認識、無理のない客観的な因果関係に基づいた推論。現実の中で実証される知識。いろいろ難しく定義できるが、要するに人として最も理解・納得できるプロセスを踏んで獲得される知識だ。くどいが、超自然的な要因に帰着させず、現実界の人として信じるに足る手法で到達する知識。常に不完全かもしれないが、その時点で最も確実な方法で真実に迫った試み、それが科学だ。その時点で最も多くの人を納得させられる論理、知識を追求すると、それが科学と呼ばれる。人は科学を基盤にするときに最も広く理解しえある。広く理解しあえるため取る方法が科学になる。現実に実証され、したがって実効もある知識。実証され実効もあるから広く説得力をもつ知識。