何だったのか、ユーゴスラビアよ

ユーゴスラビア博物館(ベオグラード)のチトーの銅像には花が手向けられていた。ヨシップ・ブロズ・チトー (1892年 – 1980年)は元ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領で、建国のときからこの多民族国家をまとめてきた。その崩壊後の1990年代、何が起こったか、生きていたらだが、彼の苦悩が伝わってくるようだ。

9割がチトーを尊敬している?

「どこから来たの?」

体格のいい青年が話しかけてきた。先ほどチトー霊廟の前で写真を撮ってあげた若者だ。アジア系の私がわざわざチトーの記念館(セルビア・ベオグラードのユーゴスラビア博物館)に来て展示を見ているのが珍しかったらしい。

青年は、旧ユーゴスラビアの一部、マケドニア(現北マケドニア共和国)の出身だと名乗った。結婚して現在はアイルランドに住む。だから英語が流ちょうなのだろう。チトーを尊敬していて、その博物館に来たのだという。

今でも旧ユーゴスラビアの人たちはチトーを尊敬しているのか。社会主義時代への批判はないのか。「僕が思うに、旧ユーゴスラビアの人の9割はチトーを尊敬している」とその青年は言った。

確かにチトーを憎む理由はないかも知れない。多くの旧社会主義国の独裁者とその点は大きく異なる。「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われた旧ユーゴスラビアをカリスマ的なチトーの指導力がまとめていた。だから、チトーが1980年に亡くなると各地で分離機運が高まり、80年代末の東欧革命に押される形で、90年代には構成6共和国の独立、セルビアからのコソボの独立、そして民族間の殺し合いという悲惨な「ユーゴスラビア紛争」が起こってしまった。スロベニア十日間戦争(1991年)、クロアチア紛争(1991年 – 1995年)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年 – 1995年)、コソボ紛争(1996年 – 1999年)、マケドニア紛争(2001年)などで、計30万人以上が死亡し、避難民・難民の数は300万人以上に上るともいう。旧ユーゴスラビア人口の 1/6~1/7が難民になった計算だ。20世紀も終わりに近い、しかもヨーロッパのど真ん中でこんなことが起こった。

多くの東欧諸国で独裁打倒から自由への胎動が始まったのとは対照的に、ユーゴスラビアでは、地獄の民族紛争が起こってしまった。ソ連から距離を置き、分権的な自主管理社会主義を目指したチトーのユーゴ社会主義は、むしろ幸福な時代として記憶にとどめられておかしくない。

小さなEUの試みとしてのユーゴスラビア

ユーゴスラビアの地図を見ながら、青年は、

「ユーゴは小さなEUだったんだ。」

と面白いことを言った。彼の住むアイルランドがEUに所属している。出身地のマケドニアはユーゴスラビアに属していた。多様な民族がそれぞれ自治的共和国をつくり、ユーゴスラビアの連邦として集まっていた。失敗し瓦解したが、確かにそれはヨーロッパの東部につくられたもう一つの地域的統合の試みだったかも知れない。これまで、「東欧の一社会主義国」としかユーゴスラビアを見ていなかたが、なるほど、面白い視点だ、と感心した。

ベオグラードのユーゴスラビア博物館。3つの建物で構成され、写真正面に見える「5月25日博物館」(チトーの遺品、受け取った贈り物などを集めた博物館)は改装工事中だった。他にチトーの霊廟がある「花の館」、ユーゴスラビア時代の社会・文化を展示する「旧博物館」がある。1996年に、それまであった「チトー記念センター」などを「ユーゴスラビア歴史博物館」に改組。2016年に「ユーゴスラビア博物館」に名称変更した。ベオグラード中心部にある「セルビア博物館」「セルビア歴史博物館」と違って、こちらは市南部の緑深い富裕地区デディニエ(Dedinje)にある。チトーのベオグラード邸宅の一つがあった場所だ。
霊廟「花の館」にあるチトーの墓石(後方)。2013年に亡くなった妻のヨバンカ・ブロズさんの墓石(手前)と並んでいる。
旧博物館の方には、ユーゴスラビア時代の社会・文化の資料が展示されている。
政治的な主張を含んだ彫刻なども。
ユーゴスラビアの地図が掲げてあった。バルカンの山の多い地形がよくわかる。その中で多数民族の住む北部セルビアは、ドナウのつくる平野に恵まれていることがわかる。

チトーの独自路線

終わってみると、過酷な専制と大量の粛清犠牲者の記憶が残るだけの20世紀社会主義だったが、貴重な試みもなくはなかった。ユーゴスラビアの自主管理社会主義はその中でも最も貴重なものだったのではないか。ソ連型集権社会主義とは異なる別の社会主義を模索した。

この地では、第一次大戦後の1918年、セルビア人主導の「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が成立していた(1929年にユーゴスラビア王国に改称)。「ユーゴスラビア」とは「南スラブ人の国」の意だ。第二次大戦中はチトーに率いられたパルチザンがファシスト勢力と戦い、戦後の1946年、ユーゴスラビア王国領を引き継ぐ形で「ユーゴスラビア連邦人民共和国」を成立させた(1963年に「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に改称)。ソ連軍に「解放」された他の東欧諸国と違い独自の抵抗組織が主力となったことでユーゴスラビアのソ連に対する自主性が確保されたと思われる。

スターリンとチトーの路線対立から、1948年にユーゴはコミンフォルム(ソ連を中心とした国際共産主義運動体)から除名される。翌年にはソ連との友好相互援助条約も破棄された。スターリンは何度もチトーの暗殺やクーデターを画策したが失敗。スターリン没後の1955年にチトーを訪問したフルシチョフはスターリンによる暗殺企図を謝罪したという。(「うちのスターリンがあんたを殺そうとして悪かった」と言ったのだと私は理解する。)

ソ連を中心とした軍事同盟、ワルシャワ条約機構には入らず、アメリカからのマーシャル・プランを受け入れ、ギリシャやトルコとの軍事協定バルカン三国同盟を結んで北大西洋条約機構(NATO)に近づいたりした。エジプト、インド、中国などともに非同盟主義の旗手となり、1961年に第1回非同盟諸国首脳会議をベオグラードで主催した。

ユーゴ自主管理社会主義

経済面では市場経済を積極的に導入するとともに、工場の労働者による自主管理(「工場を労働者の手に」)を導入した。1950年に、人民議会が「自主管理法」を可決。それを確認する新憲法が1953年に制定された。1950年から1990年まで40年間にわたり、自主管理社会主義というユニークな制度が全国レベルで実験されることになった。

自主管理社会主義では、まず企業内において従業員から選挙される「労働者評議会」が組織され、これが経営主体になる。企業の合併や分割など基本的事項について全員による投票で決定が行われる。企業の長(社長)も選挙で選ばれる。経営成果(利益)の配分も労働者評議会が決める。再投資に回す分、共同的な消費に回す分、個人所得に回す分(給与)などを決め、従業員個々人への分配も自主管理で決められる。法的な所有形態としては国有を止め、しかし私有でもなく、定義が難しいが、労働組織など社会法人が担い手となる「社会的所有」とした。

ソ連の社会主義は、労働者の国をつくったと言いながら、工場は国有で計画は上から、その経営は国のテクノクラートが担った。「工場を労働者の手に」を実際に行う仕組みがなかったことになる。あるいはまた、資本主義社会でも、民主主義と人権を中心的価値としながら、(確かに国政や地方自治では民主主義があるが)、一歩工場の中に入れば経営者による命令経済であり、そこに民主主義はない。ここに従業員による民主制を導入するのはむしろ民主主義国家として当然のこととも言える。

資本主義内の自主管理制度

「資本主義」諸国でも、一定程度自主管理制度の試みはある。有名なのはスペイン・バスク地方のモンドラゴン協同組合だ。製造業,金融,サービス,消費,農業、ITなど95事業体、15研究開発施設、従業員8万人で労働者による所有、意思決定、利潤分配への参加を確保している。1956年に発足し、現在ではバスク地方最大、スペインでも10位の「企業」に成長している。ここまでいかなくとも各国に民間の試みは多数あり、日本でも生協運動、倒産会社の労組、高齢者雇用などから労働者協同組合、ワーカーズコレクティブの試みがある。2021年にはこうした取り組みに法的枠組みを与える労働者協同組合法が成立した。

ドイツ/西ドイツでは、1951年に石炭,鉄鋼産業での試みを皮切りに、資本家と労働者が共同で意思決定を行う監査役会、さらに「経営協議会」などの経営参加制度ができている。スウェーデンは、労働組合の団体交渉権拡大での共同決定制を1983年に法制化。企業利潤の一部を拠出さてつくられる全国的な労働者基金が株式買収を通じて企業をコントロールする制度もある。

EU圏諸国ではその他にも様々な経営参加制度が存在し、近年、従業員代表(employee representation)の制度が拡大している。元締めとなるEU法でも、具体的な規定は避けながらも、労働者に配慮した「集団的労働関係」を求めている。加盟国内では、労組を主体とした「シングル・チャンネル」と、労組とは別に従業員代表の制度をつくる「デュアル・チャンネル」の二種類の制度づくりがあり、労働側への情報提供・労使協議が行われている。

EU法の「集団的整理解雇指令30」は、集団的整理解雇の際に労働者代表と協議することを定めているが、これにのっとり、IT大手グーグルもこの3月、同社初の「欧州労使協議会」(EWC)を設置する協定に合意した。従業員が多いEU非加盟の英国とスイスも対象になる。

資本主義の牙城、米国でも、労働者による資本所有の試みが進んでいる。1974年税法改正でつくられた「従業員株所有プラン」(ESOP)を行なう企業が6,232社あり、その下で1010万人が働いている。所有株式総額は1兆6000万ドルに上る。企業が買い付けた自社株式が退職・年金給付として配分される形。自社株の過半あるいはすべてを従業員所有にまわすことも可能。 最大のESOP企業はパブリックス・スーパーマーケットで、米南東部を中心に1322店舗、従業員24万人を有する(フロリダ州ではシェア6割)。ESOP企業のうち少なくとも465企業(従業員6,454人)が1人1票の労働者所有企業(worker cooperative)となっている。ESOP類似の制度はイギリス、アイルランド、オーストラリアなどにもある。

自主管理社会主義はなぜ失敗したか

こうした中でユーゴ社会主義は、国家レベルで40年にわたり自主管理制度を実践してきた試みとして貴重だ。しかし、連邦崩壊と民族紛争の地獄の中で、自主管理社会主義も吹っ飛んでしまった。貴重なこの試みはなぜ失敗したのか。足掛け10年近くユーゴに滞在し、毎年のようにこの国を訪問して観察し続けた徳永彰作は、「労働者仲間同士の慣れあい経営に甘んじていた自主管理」に突然市場の自由化がやってきて打撃を受ける様を報告している。労働者が労働条件も自分たちで決められるので、就業時間内を漫然と過ごし、あるいは終業を午後3時にするなどして、時間外の副業に精を出す姿も広くみられたという。15年にわたるユーゴ研究を叢書にまとめた藤村博之は、その最後の方で、市場経済の中での厳しい経営判断を、プロではない労働者の評議会に任せたことが失敗だったと論じている。企業長が居ても、多くて週1回程度の労働者評議会の決定を待たなければ何もできない体制では機能しない。役割分担を明確にして、労働者評議会は企業長の行う経営をチェックする役割に徹すべきだったとする。この分野の代表的研究者、岩田昌征は失敗の原因を、一律に平板的に自主管理を実行したこと、ブルーカラーを優位に置く「原始的社会主義」があったことなど計5項目を挙げた上で、次のように言っている

「さらに究極の原因は、ユーゴスラビア共産主義者同盟の一党支配体制にある。共産主義者同盟という社会に超然するマルクス・レーニン主義的権力主体が労働者自主管理を要(かなめ)とする諸制度をデザインして、社会の外から社会のなかへ押し入れる形で、すなわち党社会主義として自主管理社会主義は誕生した。ここに労働者自主管理のデザイン主義的な非自主的・非自生的な成立という矛盾と無理が認められる。」

高台の緑の公園にユーゴスラビア博物館はある。遠方にベオグラードの街が見渡せる。

何だったのか

20世紀社会主義の中では、おそらくユーゴスラビアはまともな方だった。多民族の共生社会を目指したし、自主管理という貴重な実験を国家的規模で40年にわたり継続した。その末路が、民族間殺し合いの地獄であり、自主管理経済の崩壊だった。旧社会主義諸国の中でも最も残酷な結末だった。

何だったんだ、ユーゴスラビアよ。博物館を出る際、そういう思いがこみ上げて来ざるを得なかった。日本の身近にも、このユーゴスラビア共産主義に期待をかけていた人たちが何人も居たことを知っている。それを思えばなおのこと、歴史の非情を思わざるを得ない。

旧ユーゴスラビアの内陸、特にクロアチア国境からセルビアの平原にかけて流れるドナウ川。首都ベオグラード付近で、ボスニア・ヘルツェゴビナの方から流れてくるサバ川と合流し、ゆったりと流れる。水運も多く、多様な国、民族をつなげる大河は、しかしユーゴ崩壊後に地獄を見る。
ベオグラードを流れるドナウ。下流の東方向を望む。右手からサバ川が合流する。
合流地点付近の高台に古くからあるカレメグダン城塞。歴史的に守りの要衝だった。今では市民の憩いの場となっている。前方にドナウ川。
な、何だこの人出は。ある日、ベオグラード中心部から郊外の宿に帰ろうとして市バスがまったく来ないのに困り果てた。やむをえず、橋の方に歩きだしたらこの人出だ。デモか。2023年5月26日(金)午後8時頃、ブランコ橋のたもとで。
次から次とデモ隊がやってくる。まいった。これじゃあ、バスも動かないわけだ。5月に立て続けに起こった銃撃事件について政府の対応に抗議するデモだという。市バスの運転手組合もデモに参加してしまっているのか。橋向こうには多数の貸し切りバスが停まり、地方からも大量の動員があったことをうかがわせる。少なくとも数万人規模。この規模のデモ、今の日本ではありえない。自主管理社会主義を支えた労働組合の組織力は今でも健在のようだ。